【東日本大震災5年】トモダチ作戦は「義務ではなく、愛によるものだった」 元在日米軍司令官
揺れが収まるのを待ち、全ての在日米軍基地に異常がないか確認するよう指示した。問題は他からやってきた。11機の米民間航空機が羽田、成田両空港が閉鎖されたため、横田基地へ向かうというのだ。
慌ただしくジョン・ルース駐日米大使に電話をした。だが、連絡が取れず、携帯電話も不通だった。折木良一統合幕僚長、ハワイのロバート・ウィラード太平洋軍司令官らとも連絡を取り合った。その直後に、最初の民間機が横田に飛来した。
福島第1原発の1号炉付近では爆発が起き、フィールド司令官らには「損傷の程度や、他の炉が同様の状況にあるのかどうか、分からなかった」。
頭はせわしなく回り始めていた。「事態がさらに悪化したら、どう対応するのか。(日本政府などから)要請された場合、米国人と他の外国人、日本人をいかに避難させるか」…自衛隊の依頼を受け米軍が担ったのは、小学校などの清掃と、救援物資を空輸できるよう、使用不能状態にあった仙台空港を再開させることだった。
フィールド司令官は仙台へ飛んだ。だが空港には降りられなかった。上空から見た空港は水浸し。「車も家もすべて破壊されているようだ。空港も何カ月も使えないだろう」と思った。
「われわれが仙台空港を、できるだけ早く復旧するようにします」
大佐らは宮城県知事、仙台市長と会い、海兵隊などと協力し、がれきなどに覆われた滑走路を整備して、復旧に全力を挙げる。C130輸送機が最初に仙台空港に着陸したのは、16日のことである。
フィールド司令官は「友人、同盟国としてやるべきことをした。それはただ義務ということではなく、愛によるものだった。われわれは手助けをしただけで、真のヒーローは自衛隊だ」と話す。(ワシントン 青木伸行)
《維新嵐》アメリカ海兵隊がいち早く仙台空港を啓開してくれたおかげで、支援活動の拠点を確保することができました。上陸作戦の橋頭保を確保するために着上陸作戦の訓練を日々行っているアメリカ海兵隊だからこそ迅速にできたわけですね。
アメリカ海軍が振り返る3.11 「トモダチ作戦」
配信日:2016/03/12 21:55
http://flyteam.jp/airline/united-states-marine-corps/news/article/61008
救援の米海軍ヘリから撮影された2011年3月21日の釜石市
アメリカ海軍の歴史広報メディア「Sextant」が、東日本大震災における「トモダチ作戦」を振り返っています。
東日本大震災は2011年3月11日に、仙台東方80マイル沖を震源にマグニチュード9の大地震が発生し、それにともなう大津波と原子力発電所のメルトダウンが東日本太平洋岸を襲いました。アメリカ地質研究所によると1万5,000人以上が死亡し、33万の建物が破壊され、13万人が避難を余儀なくされました。世界銀行によると被害額は2,350億ドル以上と推定され、世界史上最高額の被害を生んだ自然災害とされています。
地震発生数時間後にはアメリカ海軍が救援活動、トモダチ作戦を開始しました。航海中の空母USSロナルド・レーガン(CVN-76)が仙台沖に急行するなど、140機の航空機、20隻の艦艇が参加し、第31海兵遠征部隊(31MEU)の将兵や、三沢基地、嘉手納基地などの将兵、2万人以上が救援活動を実施しました。
アメリカ軍は、200万ガロンの飲料水や189トンの食料、1万1,960ガロンの燃料、100トンの救援物資を輸送し、医療や捜索救難、重量物の移動などの支援を実施しました。また原子力発電所事故への物的・技術的支援も実施しています。
アメリカ海軍ではトモダチ作戦は、アメリカ海軍と海兵隊の世界中からの求めに応じられる即応能力とパートナーシップが再確認できたとしています。240年以上のアメリカ海軍の歴史には世界中の災害に対応する場面が多数あり、それらが映画や文芸などで表現されるロマンチックな海軍像の一部であるとしています。
メイバス海軍長官はトモダチ作戦に参加した第7艦隊水兵に「アメリカ海軍・海兵隊以外にこのような支援ができる軍隊はどこにもない。アメリカと日本の永年にわたる同盟関係を実証し、君らの活動により両国のパートナーシップが強化された」と話しています。
また、日本大使館次席を招いてのペンタゴンでのセレモニーで、トモダチ作戦中にロナルド・レーガン空母打撃群を指揮したロバート・ギリアー少将は「トモダチ、フレンド、信頼するパートナー、同盟、チームメイトなどの言葉は何を意味するでしょう。それらは出来上がった関係を表現するだけでなく、逆境の中で学び経験を共有し、共に成長し深めていくものだ」と話しています。
東日本大震災は2011年3月11日に、仙台東方80マイル沖を震源にマグニチュード9の大地震が発生し、それにともなう大津波と原子力発電所のメルトダウンが東日本太平洋岸を襲いました。アメリカ地質研究所によると1万5,000人以上が死亡し、33万の建物が破壊され、13万人が避難を余儀なくされました。世界銀行によると被害額は2,350億ドル以上と推定され、世界史上最高額の被害を生んだ自然災害とされています。
地震発生数時間後にはアメリカ海軍が救援活動、トモダチ作戦を開始しました。航海中の空母USSロナルド・レーガン(CVN-76)が仙台沖に急行するなど、140機の航空機、20隻の艦艇が参加し、第31海兵遠征部隊(31MEU)の将兵や、三沢基地、嘉手納基地などの将兵、2万人以上が救援活動を実施しました。
アメリカ軍は、200万ガロンの飲料水や189トンの食料、1万1,960ガロンの燃料、100トンの救援物資を輸送し、医療や捜索救難、重量物の移動などの支援を実施しました。また原子力発電所事故への物的・技術的支援も実施しています。
アメリカ海軍ではトモダチ作戦は、アメリカ海軍と海兵隊の世界中からの求めに応じられる即応能力とパートナーシップが再確認できたとしています。240年以上のアメリカ海軍の歴史には世界中の災害に対応する場面が多数あり、それらが映画や文芸などで表現されるロマンチックな海軍像の一部であるとしています。
メイバス海軍長官はトモダチ作戦に参加した第7艦隊水兵に「アメリカ海軍・海兵隊以外にこのような支援ができる軍隊はどこにもない。アメリカと日本の永年にわたる同盟関係を実証し、君らの活動により両国のパートナーシップが強化された」と話しています。
また、日本大使館次席を招いてのペンタゴンでのセレモニーで、トモダチ作戦中にロナルド・レーガン空母打撃群を指揮したロバート・ギリアー少将は「トモダチ、フレンド、信頼するパートナー、同盟、チームメイトなどの言葉は何を意味するでしょう。それらは出来上がった関係を表現するだけでなく、逆境の中で学び経験を共有し、共に成長し深めていくものだ」と話しています。
《維新嵐》 地域における軍事同盟関係による「集団的自衛権の行使」により、軍事侵攻が抑止されます。アジアにおける共産中国の海洋覇権の脅威に対する「抑止」は、多国間の複合的な自衛権を行使できる同盟関係と集団安全保障体制が不可欠です。
災害救助支援活動という大規模災害との戦いもこうした軍事同盟関係が多くの命を救うための「集団安全保障」となるのですね。
第Ⅱ章 福島第一原発事故
【福島第1原発事故 5年目の真実】「日本政府はこれだけしかできないのか」…米国務省調整官はこう不安を抱いた 80キロ退避勧告経緯
◇
誤情報「決定的なものでなかった」
原子力規制委(NRC)委員長 グレゴリー・ヤツコ氏
米ワシントンで取材に応じたヤツコ氏は、発生当初は十分な情報がなく、「在日米国人に対して日本政府の勧告に従うよう呼びかけていた」という。
NRCが「80キロ退避勧告」に転じたのは3月16日朝。福島原発4号機の使用済み核燃料プールが崩壊したとの情報が入った直後で、2号機の原子炉で放射線を閉じ込める能力が失われた可能性もあった。
ヤツコ氏はこれに加え、最悪のシナリオのシミュレーションや原発から北西に40〜48キロの地域で高い放射線量が測定されたことを「80キロ退避」を決断した理由に挙げた。
4号機のプール崩壊の情報は後に間違いだったことが判明。しかし、「それはひとつの要素で決定的なものではなかった」とし、退避勧告の規模を修正する必要はなかったとした。「80キロ退避」が日本政府の信頼を損ねたと批判されることについては、「日本政府への信頼は原発事故が起きたその日のうちに失われていた」と語気を強めて反論。事故を防げなかった日本政府や東京電力の対応の甘さを厳しく批判した。
一方、ヤツコ氏は米国内の対応についても言及し、「原発関連産業は16キロ以上離れていれば、事故時でも汚染は生じないと説明してきた」とした上で、「それは明らかに真実ではない」と述べ、米国における緊急対応計画の不十分さを批判した。
◇
「日本政府 これしかできないのか」
国務省調整官 ケビン・メア氏
メア氏は米ワシントンで行った取材で、事故による被曝(ひばく)を避けるため米軍の避難を検討していたと明かした。3月16日、キャンベル国務次官補が藤崎一郎駐米大使を国務省に呼び、「日本政府が目に見える形で対応しなければ、軍を避難させる必要が出る」と伝えたという。
「沖縄はゆすりの名人」と発言したとして、震災前日に国務省日本部長の職を解かれたメア氏は急遽(きゅうきょ)、対日支援の調整官に就いた。
11日、在日米軍のヘリで真水を大量に輸送できないかと問い合わせてきたとの情報が入った。東京で科学技術担当の公使を務めた経験から、「真水を頼んでくるとしたら危ない。水がないとメルトダウン(炉心溶融)する」と、海水の注入を進言するよう在日米大使館に伝えた。
日本側から詳細な情報が届いていないという不信感があった。日本時間17日の陸上自衛隊ヘリによる冷却水投下はこうした状況下で実施されたが、メア氏は「日本政府はこれだけしかできないのか。水は原子炉に届いておらず何も効果がない」と感じた。
海軍の原子力部門の責任者は16日、東京や横須賀からの避難を主張。メア氏は「日米同盟が大きく揺らぐ」と反対した。結局、米国民への避難勧告に東京は含まれなかった。
◇
後から考えれば不要だった
□NRCの日本支援チーム責任者 チャールズ・カストー氏
(80キロ退避勧告が出たのは)いくつか理由がある。米国では原発に独立した調査官を送り込み状況が把握できるが、日本では情報が得られない。原発から約40キロの地点で高い放射線量が見つかっており、80キロは念のため2倍した数字だった。当時の判断としては妥当だったが、誤情報に基づいていたことも確かだ。後から考えてみれば、「80キロ退避」は必要なかった。
福島には何度も行った。人生で最も深い悲しみを感じた。昨秋には福島県内を回って除染作業を手伝ったり、現地で話を聞いたりした。(福島第1原発の吉田昌郎所長は)素晴らしい紳士で、作業員たちから神様のように慕われていた。東電の作業員たちは、事態の悪化を防いだ英雄だと思う。
◇
誤っていたがベストな判断
NRC運営総局長 ビル・ボーチャード氏
事故発生直後は、ここまで大きな事態になるとは想定していなかった。津波の影響は予想していなかった。最初は日本のテレビ放送が最大の情報源だったのが実情だ。
(80キロ退避勧告は)3つの原子炉で炉心溶融が起き、放射線を閉じ込める機能が完全に失われるといった事態を想定して決めた。次に何が起こるか分からなかったし、電源が回復するまでどのくらい時間がかかるかも不明だった。誤っていたが、4号機の核燃料プールの能力が失われているとの情報も考慮した。情報を待って分析を続けるだけでは重要な機会を失うリスクもある。勧告は得られた情報に基づいたベストな判断だったと思う。
◇
【用語解説】50マイル退避勧告 福島第1原発事故の発生から5日後の米東部時間2011(平成23)年3月16日、米国が日本在住の米国人を対象に発出した原発の半径50マイル(約80キロ)圏内からの退避勧告。当時、日本政府は原発から半径20キロ圏内の退避を勧告しており、日米の格差が議論を呼んだ。
《維新嵐》我が国のように大陸から移動してくる地殻プレート、太平洋から移動してくる地殻プレートがぶつかりあうところ、必然的に火山や地震が多くなりますが、こういう場所に立地させるのは、いい加減見直すべきでしょう。
原発以外にも燃料資源はたくさんあります。
民間シンクタンクである独立総合研究所がまとめたメタンハイドレートの有効性と実用性をしっかり確認して自前の資源開発に思い切って研究・開発していくべきでしょう。
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