2015.8.3 14:30更新 http://www.sankei.com/life/news/150803/lif1508030013-n1.html
湯川秀樹博士のノーベル賞受賞など輝かしい歴史を誇る日本の原子核物理学。しかし、草創期の終戦前後は苦難の時代でもあった。軍の依頼で極秘に行われ失敗に終わった原爆開発、その後に起きた円形加速器「サイクロトロン」の破壊事件。記録や関係者の証言を基に、科学者が巻き込まれた2つの出来事の「当時と今」を追った。
≪理研「ニ号研究」≫
■幻の原爆開発、ウラン濃縮が壁
■実験失敗、焼失した「始終苦号館」
由緒ある高級住宅街として知られる東京都文京区の本駒込。その一角に、昭和初期の建物が1棟残っている。かつての理化学研究所の研究棟37号館だ。この東隣にあった木造2階建ての49号館で戦時中、極秘の原爆研究が行われていた。
研究が始まったのは戦前の昭和16年4月。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。
約1年後、ミッドウェー海戦で大敗した海軍も「画期的な新兵器の開発」を打診する。仁科は原爆開発の可能性を検討するため、物理学者による懇談会を組織。だが、懇談会は「理論的には可能だが、米国もこの戦争では開発できない」と結論付け、研究は進展しなかった。
本格化の契機になったのは仁科が18年6月に陸軍へ提出した報告書だ。核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。後に広島に投下された原爆に相当する威力だ。これに陸軍が反応した。
「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。東条英機首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
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ニ号研究は原爆に使うウラン濃縮技術の確立、濃縮の確認に使う大型の円形加速器「サイクロトロン」の開発、ウラン調達ルートの確保が3本柱だった。
天然ウランには中性子の数が異なる同位体が複数存在する。核分裂するウラン235は全体のわずか0・7%で、残りは核分裂しないウラン238だ。
原爆はウラン235の核分裂で出てきた中性子が、ほかのウラン235に衝突して瞬時に核分裂の連鎖反応が広がり、爆発的なエネルギーを放出する。ウラン238は中性子を吸収して連鎖反応を妨げるため、原爆開発にはウラン235の比率を10%に高める濃縮が必要だった。
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そこで、熱拡散法という方法でウラン235を分離し、その濃度を高めることにした。49号館には、分離筒と呼ばれる高さ5メートルの筒状の実験器具が立てられた。
分離筒は二重構造で内側に外径3・5センチの筒があり、2つの筒の間には2ミリの隙間がある。この隙間の空気を抜いて真空にして、天然ウランをフッ素に反応させて作った六フッ化ウランのガスを注入。電熱線で内筒を350~400度、外筒を50度にして温度差を作ると、ガスが上下に対流し、筒の上側に軽いウラン235、下側に重いウラン238が集まる仕組みだ。
分離筒は19年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだった。だが六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。
実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。20年1月、チームの1人は日誌に「行き詰まった感あり」と記す。分離筒を作製し、実験で悪戦苦闘した竹内柾(まさ)氏は戦後、49号館を「始終苦号館」と評した。
仁科は大阪帝国大(現大阪大)に分室を設置。陸軍が同様の分離筒を設置したが、稼働しなかった。4月14日、本拠地の49号館は空襲で分離筒とともに焼失する。既存の小型サイクロトロンで中性子を当てた実験済みの試料がわずかに残っていたため、調べたところ、濃縮できていないことが判明。仁科はニ号研究の中止を決断した。
仁科が中止の可否を陸軍に尋ねると、6月に届いた返答は「敵国側もウランの利用は当分できないと判明したので、中止を了承する」という楽観的なものだった。広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。
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焼失を免れた37号館の2階には、仁科の執務室が当時のまま残っている。まるで時間が止まったかのような空間だ。仁科記念財団の矢野安重常務理事(67)は、この部屋で今も遺品の整理を続けている。「濃縮実験の状況から、仁科は本当に原爆を開発できるとは思っていなかっただろう」と心中を推測する。
仁科は米国も太平洋戦争中には開発できないと考えていた。それだけに広島の原爆には計り知れないショックを受けた。現地調査に赴く直前、研究員にあてた手紙にこう書き残した。
「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」
科学者としての敗北感と自責の念がにじむ。
次男の浩二郎氏(83)は現地調査から帰宅したときの仁科の様子を覚えている。「悲惨な状況を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた」
仁科は原爆だけでなく、原子力のエネルギー利用にも関心を持っていたとされる。戦後は原子力の安全利用のための国際的な枠組みづくりを訴えた。
「原爆開発には失敗したが、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味で、父はほっとしていたかもしれない」。浩二郎氏は静かに語った。
◇
■ニ号研究に参加 福井崇時氏(91) 「証拠、川に捨てた」
--原爆研究のニ号研究に関わったきっかけは
「大阪帝国大の1年生だった昭和19年春、理学部物理学教室の助教授だった奥田毅先生から『(ウラン濃縮に使う)分離筒の世話をしろ』と言われた。理研が空襲で危なくなったので、阪大に分室を作ったと後で聞いた」
--どんなことをしたか
「分離筒をポンプで真空にする作業をした。停電するとポンプが止まって油が逆流するので、そのための世話をした。問題は、分離筒は当時の日本の製作技術としては無理な構造だったこと。溶接が不完全で漏れがひどく、真空にならないので全然だめだった。20年春、理研から六フッ化ウランが持ち込まれたが、分離筒の真空度が悪く、入れても意味がないので注入しなかった」
--原爆を開発できると思っていたか
「こんなもので、できるはずはないと思っていた。原爆を作ろうにもウランがない。ウラン235も分離できていない。原爆の卵のもっと向こうの、よちよち歩きの状態だった。原爆を作るなら、きちんとシステムや組織を作らなくてはいけないのに、日本は米国と比べて方針がなく、バラバラだった。われわれ学生に分離筒をやれというのも、むちゃくちゃだった」
--終戦後はどうしたか
「進駐軍が来て分離筒を見つけると、えらいことになると思った。阪大が理研の出店(でみせ)であることは隠していたからだ。詳しく調べられると、先生方に累が及ぶ。証拠は隠せと思った。川に捨てれば分からなくなるので終戦の数日後、誰にも相談せず同期生と2人で、理学部のすぐ隣にある筑前橋から土佐堀川に3本の分離筒をばっと捨てた。もう70年もたっているので、さびて腐っているだろう」
--仁科芳雄博士はなぜ原爆研究に取り組んだと思うか
「軍の研究に参加すれば兵隊に行かなくて済むので、周囲の研究者や学生を温存するため参加したのが本心。後に先生がおっしゃっていた。それと研究を守りたいということ。われわれは守ってもらったわけです。だから僕は戦争の被害者とはいえない」
◇
【プロフィル】仁科芳雄
にしな・よしお 明治23年、岡山県里庄町生まれ。大正7年、東京帝国大電気工学科を卒業し理化学研究所入所。10年から昭和3年まで渡欧し量子力学を研究。6年、仁科研究室創設。21年、理研所長、戦後初の文化勲章。24年、日本学術会議副会長。26年1月死去。仁科芳雄博士の執務室(東京都文京区本駒込)は、焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている
≪京都帝大「F研究」≫
■不可能だった遠心分離
原爆開発の研究は、海軍の依頼を受けた京都帝国大(現京都大)でも並行して行われていた。核分裂の英語(フィッション)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれた。
研究は戦局が深刻さを増した昭和18年5月に委託されたが、本格化したのは19年秋からだ。原子核研究の草分けだった荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授を中心に、理論面で湯川秀樹博士らも参加した。
ウラン濃縮は理研とは別の方法を試みることになり、遠心分離法を採用した。天然ウランを容器に入れて高速回転させ、遠心力を利用してウラン235を分離する方法で、洗濯機の脱水と同じ原理だ。
遠心分離機は、荒勝研究室の講師だった清水栄京大名誉教授らが独自に設計する一方、東京計器製作所(現東京計器)にも設計・作製を依頼した。
1カ月後に終戦を迎えることになる20年7月。F研究に関する海軍と京大の最後の合同会議が琵琶湖岸のホテルで開かれた。ここで海軍出身の東京計器顧問、新田重治氏が遠心分離機の構造を説明している。
「その図面が出てきたのですよ」。核物理学の歴史を調べている政池明京大名誉教授(80)が明かす。今年6月、清水氏の遺品から見つけた。記録がほとんどないF研究を裏付ける貴重な証拠だ。図面は劣化して見にくいが、「完成 昭和20年8月19日」との記載が見える。終戦の4日後に完成させる予定だったのか。米国の資料によると、東京計器は遠心分離機の製造中に空襲で被災し、装置は失われたという。
荒勝研が独自に設計した新たな図面も見つかった。20年3月に作製され、「空気タービン式超遠心分離装置」との表題がある。容器を圧縮空気で浮かせて摩擦を減らし、高速回転させる仕組みで、方眼紙に詳細な構造が書かれている。
清水氏の研究ノート3冊と資材リストも残されていた。ノートは皇紀で日付が記されており、海外の論文を熱心に読み込み、遠心分離機の材質や構造を研究した様子がうかがえる。
政池氏は「ウランを入れる容器の材料として、零戦(れいせん)用に開発された軽量で強い超々ジュラルミンという合金を使うことが書かれており、興味深い」とページをめくる。
荒勝研究室には中国・上海の闇市場で海軍が購入した約100キロのウラン化合物が運ばれたという。だが遠心分離機は結局、完成せず、実験に使われることなく終戦を迎えた。
ただ、完成していても、実は当時の遠心分離法ではウラン濃縮は不可能だった。それを既に知っていた米国は別の方法で原爆を開発した。遠心分離法による濃縮は、容器内に温度差を設けて対流を起こす技術などを併用することが必要で、実用化したのは戦後になってからだ。
F研究は極秘だったニ号研究と比べオープンに行われ、研究も基礎的な段階にとどまった。戦後、荒勝研に所属した竹腰秀邦京大名誉教授(88)は「荒勝先生は原爆を開発できるとは思っていなかっただろう。終戦に間に合う見込みはなかった。時代に翻弄された科学者といえるのではないか」と話す。
京大に当時の面影はないが、その名残をとどめている場所がある。生協本部が入っている「花谷(はなたに)会館」。F研究に加わった荒勝研の大学院生、花谷暉一さんの遺族が寄贈した建物だ。優秀だった花谷さんは広島の原爆被害調査団に同行した際、枕崎台風による土石流で命を落とした。会館の由来を知る学生は、今では少ない。
◇
≪学徒動員≫
■「ウラン採掘」終戦日まで
終戦が迫っていた昭和20年4月。ニ号研究による原爆開発で起死回生を狙う陸軍は、福島県石川町の山間で、旧制私立石川中(現石川高)の3年生約60人を学徒動員し、ウランの採掘を開始した。
「毎日、家から10キロ歩いては集まり、午前8時半ごろから午後4時ごろまで『黒く光る石を探せ』と働かされたものです」。有賀究(きわむ)さん(84)は、今はのどかな水田が広がる採掘場跡を前に、こう振り返った。
重機はなく、スコップやつるはしで岩肌を砕く重労働。わらじ履きの足はすぐ痛くなり、腹も空いて仕方がなかった。米軍機の機銃掃射にも襲われた。
陸軍将校から「君たちが掘っている石がマッチ箱1個分もあれば、ニューヨークを吹き飛ばす爆弾が作れる」と言われた。「お国のために頑張らなくては」と精を出した。
原爆開発に必要なウランは当時、日本ではほとんど産出しなかった。陸軍はドイツや朝鮮半島から秘密裏に運ぼうとしたが、いずれも失敗。戦前から微量のウランを含む「ペグマタイト」という鉱石を少量産出することで知られる石川町に、望みをつないだのだ。
同町文化財保護審議会委員の橋本悦雄さん(66)は「戦局が悪化する中で、軍としては苦肉の策だったのだろう」と話す。
ニ号研究は6月に中止されたが、町には情報が伝わらず、採掘は終戦当日まで続いた。学徒による採掘量は1トン近くともいわれるが、どこに運ばれたかは不明で、何の役にも立たなかった。
前田邦輝さん(85)は「自分たちが掘っていたものが何だったのか、戦後数十年たって初めて知って驚いた」。結局、ウランは採れなかったが、それでよかったと思っている。「科学者は純粋に研究したかっただけなんだろうが、軍部にどう使われたか分からないからね」と語った。
≪科学と戦争≫
■情報、物資の差で成否
原爆は核物理学が急速に進歩した「科学の時代」と第2次世界大戦が不幸にも重なって生まれた。
ドイツのアインシュタインは1905年、特殊相対性理論を発表。物質の質量がエネルギーに変わり得ることを証明し、これが原爆開発の素地になった。38(昭和13)年にはドイツの物理学者ハーンらが、ウラン235に中性子を当てると核分裂して巨大なエネルギーを放出することを発見。核物理学の飛躍的な進展とともに、新兵器への応用も現実味を帯びてきた。
ドイツでは当時、戦況悪化で原爆はあまり研究されていなかったが、米国はヒトラーが先に作るのではないかと疑心暗鬼に陥り、42年に原爆開発の「マンハッタン計画」を始動した。
一方、戦前の日本の核物理学は欧米と肩を並べる水準で、科学者は原爆開発の可能性をほぼ同時期に把握していた。しかし、開戦後は海外から科学技術の最新情報を入手できず、研究に必要なウランや金属も調達できなくなった。
米英は44年の時点で計3670トンのウランを確保していたが、日本は多くても1トン程度。理研がウラン濃縮で大量生産に不向きな熱拡散法を採用したり、装置に不具合が生じたりしたのも、開発に必要な資材の不足が影響している。
米国のマンハッタン計画には12万人が参加し、研究費は当時の22億ドル(103億円)に上った。これに対し日本の原爆研究者は数十人で、研究費もニ号研究で2000万円にすぎない。組織も陸海軍で一本化されておらず、開発体制はあらゆる面で脆弱(ぜいじゃく)だったといえる。
核開発史に詳しい山崎正勝東京工業大名誉教授(70)は「こんな状況で、日本は初めから原爆など開発できるはずがなかった。予想通りの結果に終わった」と話す。
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