2016年4月10日日曜日

戦国ミステリー編 お家が生き残るための戦略

「敗軍の将」の末裔が明かす大名家に伝わる極秘の言い伝え
2015831 70 http://news.livedoor.com/article/detail/10530980/

 歴史には、表もあれば裏もある。だが、その語り部は常に勝者側で、敗者側の話はほとんど表に出てこない。今夏は太閤・秀吉が築いた豊臣家が滅んだ大坂の陣(1615年)から400年──。豊臣側の敗軍の将の末裔たちが、ご先祖の知られざる物語を語り合った。集まってもらったのは、豊臣秀吉の子孫・木下崇俊(きのした・たかとし)、石田三成の子孫・石田秀雄(いしだ・ひでお)、大谷吉継(よしつぐ)の子孫・大谷裕通(おおたに・ひろみち)の三人だ。
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石田:三成から私にも伝わっていることがあって……。関ケ原の戦いのとき、三成はおなかを下していて、裏へ行っては用を足していたとか言われていますよね。私も父親も息子も同じ。受験の前日とか、そういうときに限っておなかを壊しちゃう。天下の一大事のときにね(笑)。これをうちでは「三成腹(みつなりばら)」と言っているんです。お前また三成腹か、みたいな使い方をする。わが家の持病です。

木下:わが家には、代々極秘としていた一子相伝の言い伝えがあります。大坂の陣で亡くなったとされている豊臣秀頼の子・国松(くにまつ)にまつわるお話です。大坂の陣のとき、秀頼を攻める徳川勢のなかに、約500人の兵を率いる日出(ひじ)藩主の延俊がいました。冬の陣、夏の陣ともに、陣取っていたのは備中島というところでした。伝わるところでは、備中島には大坂城につながる抜け道があったらしい。そこを使って逃れた国松は、薩摩藩の船で薩摩の伊集院というところへ落ちのびた。真田幸村の嫡男・大助(幸昌)が同行していたという話です。秀頼について、わが家の言い伝えは何も触れていません。ただ、今の鹿児島市谷山地区の木之下という集落に、秀頼の墓があります。

大谷:秀頼と国松の親子が薩摩に落ちのびた。すごい話だな。木下さんが治めていた日出藩も同じ九州です。

木下:そうなんです。言い伝えには続きがあって、その後、薩摩藩でもかばいきれなくなったからか、国松は単独で日出藩へやってきました。国松にとって、延俊(のぶとし)は祖父・秀吉の義理の甥になりますから、頼ったのかもしれません。延俊は、国松を自分の子とし、名も縫殿助と改めさせました。延俊の実子・俊治にしてみれば、突然、弟ができたということになります。延俊は亡くなるときに、家老の長沢市之丞を呼んで遺言を残しました。俊治を2代藩主に、弟の縫殿助には日出藩3万石のうち1万石を分けて立石藩をつくれ、というものでした。さらに、縫殿助を延由(のぶよし)と改名させた上に、羽柴姓を名乗らせたのです。

石田:3万石のうち1万石というのは、ずいぶん思い切ってますね。

木下:3万石を2万石、つまり収入を3分の2にして藩を維持するのは大変です。だから、家老の長沢は聞き間違えたふりをして5千石としました。幕府から正式な許可がおりたのはずっと後ですが、そのとき長沢は主命に背いた罪を詫びるという書き置きを残して切腹しています。立石藩主となった羽柴家は、明治まで続きました。18代の父は、この言い伝えを祖父ではなく、16代の正室から直に受け継いでいます。10歳くらいのときに、祭壇の前に正座させられ、ほとんど毎日くり返し暗唱させられたそうです。

大谷:家に伝わっている話というのはありますよね。

木下:ただ、20年くらい前にこの言い伝えをテレビの番組で話したとき、大学の先生から「勝手なことを言うんじゃない」と怒られたことがあります。一子相伝で伝わっていることを申し上げたまでです、と言い返しましたよ。

(構成 横山 健[カスタム出版部])週刊朝日 201594日号より抜粋


《維新嵐》 「家」を単位として一族の生き残りをかけてきたことは日本の伝統的なあり方であろうと思います。日米戦争で「敗戦」を受け入れてから、我が国は「個人主義」という新しい価値観を受け入れてきて半世紀以上たちますが、「家」としての一族のあり方、社会のあり方は、国家を維持していくあり方としても忘れてはならない価値観なのであろうとあらためて思います。
 戦国時代の織田信長と徳川家康による同盟、いわゆる尾三同盟は、信長や家康が亡くなって後も続いて、現代に至っています。一族が滅びない限り、滅びないように「家」同士の関係を構築し、維持していくことは、国家、民族としてのつながりの強さに直結した問題になってくるということでしょうか?


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