(財)DRC研究専門委員
井川宏
はじめに
統合の必要性及びその運用のあり方については、自衛隊創設以来種々検討されてきたが、統合幕僚会議は設置されたものの、運用についての具体的な進展はなかった。しかし、冷戦終結後は、自衛隊の活動がわが国の領域内に止まらない場合も考えられるようになったことも影響して、統合運用の必要性が強く認識されるようになった。その具体的な現れとして、昨平成14年12月には、統合幕僚会議が「統合運用に関する検討」成果報告書を公表した。今後はこの検討結果を現実の施策として実現する段階であろう。
統合運用は、米国をはじめとするほとんどの先進国軍隊で実施されているが、その実態は国により幾分の相違がある。本項では、軍の運用構想の変遷などにわが国と相通ずる面のあるオーストラリアを取り上げた。その戦略思想の変遷と現在の運用の実態を、公式の出版物であるドクトリンで探り、わが国の統合運用考察の参考に供したい。
1.オーストラリア軍事戦略の歴史
1901に連邦が成立して以降、オーストラリアは大別して4種類の軍事戦略を採用してきた。すなわち、大英帝国(1931年以降は英連邦)防衛への統合(1901-42年及び1945-69年)、前方防衛(1955-72年)、オーストラリアの防衛(1973-99年)、及び地域の防衛(1997年以降)である。これらの軍事戦略の変更は漸進的であり、変更の際には重なりがあった。それぞれの戦略は、その時代の環境を反映しており、国内の経済、社会、及び政治情勢に大きく影響されている。しかし、全体に通じる共通の主題は、オーストラリア本土に対する直接の脅威の発生に先んじて備えようとするものである。
これまでのオーストラリアの戦略に関する政策論争は、大陸の防衛と前方防衛というコンセプトのどちらを中心にするかということであった。歴史的には、オーストラリアは、同盟国との集団安全保障条約に頼っている。
大英帝国、そして後には英連邦の防衛戦略の下では、オーストラリアは、オーストラリアの陸上の要地を守るための、少数でその大部分は非常勤の陸軍と、全世界的な役割を担っている英国海軍の一要素として組み込まれることになっている海軍を保持していた。英国の戦略的なシーパワーが、オーストラリアの戦略的及び地域的安全をもたらした。オーストラリアは、大きな英連邦軍の分遣隊として戦うための臨時の遠征陸上部隊を徴募することで、主要な戦争に対応した。1920年代と1930年代に、この戦略は、軍および政府の中で激しく議論された、シンガポール戦略として知られる単一の戦略的賭博に過度に集中することとなった。その採用は、オーストラリアが戦略的な独立を保持するために必要な陸海空戦力への投資に政府が反対であることを意味した。
日英同盟が1921年に破棄され、それが敵対関係に変わると、大英帝国の防衛戦略に頼ることはできなくなった。英国の経済力が低下したために、英海軍と英空軍は、ヨーロッパと東方の両方に十分な兵力を維持することはできなくなった。1942年始めにおける日本によるシンガポールの占領は、1920年代と1930年代を通じて陸軍と空軍の上級士官によって提起されていた懸念を立証した。
1941年から1942年の間に、オーストラリアはその限られた資源をオーストラリア本土の防衛のためにつぎ込んだ。本土への攻撃が繰り返された結果、始めてオーストラリアへの侵攻の恐れが現実のものとなった。この経験によって、政府はオーストラリアの安全保障に対する東南アジアと南西太平洋の群島の重要性に注目するようになった。太平洋の戦いで共に戦った米国とオーストラリアは、重要な同盟国となった。1942年の事象は、オーストラリアに、強力なパートナーとの同盟と十分な自助の手段とのバランスの取れた安全保障の必要性を強く認識させた。
第二次世界大戦後オーストラリアは、第二次世界大戦の経験とオーストラリア政府がアジアの不安定さに注目したこととの両方を反映して、次第に前方防衛の戦略を取るようになった。侵略戦争や反乱の支援などによる共産主義の拡散及び東南アジアの新しい民族国家の弱体さが大きな問題であった。1960年代中期には、オーストラリアは英国への依存から米国との同盟に完全に移行した。第二次世界大戦後における、小さいが即応性の高い常備陸軍と、広く展開できる海空の兵力の創設もまた、オーストラリアの防衛における自助努力の増強の必要性を認識した結果である。
1970年代におけるベトナムでの戦略的な失敗は、オーストラリアと米国の両方によるアジアの同盟国へのそれぞれの国による直接支援のコミットメントの再評価をもたらした。ニクソン大統領の1969年グァムドクトリンは、米国がアジア太平洋地域にコミットするとしても、地域の諸国は米国の戦闘部隊がそれらの国の防衛に関与することは求めないということを既に指摘していた。
1971-72年のオーストラリアのベトナムからの撤退、並びに1973年のシンガポール及び1985年のマレーシアにおける前方基地設置の結果、徐々にではあるがオーストラリア軍事戦略の再評価が行われた。この再評価は、東南アジアの大部分における戦略的、経済的安定の増大と期を一にするものであった。1960年代後期におけるオーストラリア砦概念の論争に始まったこの移行のフェーズは、Defence of Australiaと名づけられた戦略が作成され採用された1986年のDibb Reviewで最高点に達した。Defence of Australiaは、オーストラリア北部に接する海空ギャップと呼ばれる場所における敵の撃滅に努力を集中した縦深防御のコンセプトを再び明確にした。
けれどもオーストラリアのStrategic
Review 1993以後、オーストラリアは全般としては安全保障上の要求に合致したより積極的な方向に向かった。Australia’s Strategic Policy 1997に始まり、国防白書Defence 2000: Our Future Defence Forceの中に展開されているのは、どこでそしていかなる環境の下で、オーストラリア本土及びオーストラリア国益の直接の防衛が実際に始まるのかについての長期にわたる再評価である。現在公表されているオーストラリアの国防政策は、地域の安全保障によるオーストラリアの安全保障である。脅威が最初に現れたときに、オーストラリアは地域の諸国と共同してともに対処し、オーストラリアの戦略空間を最大にすることで生じつつある潜在的な脅威を避けるための最善の位置を確保するのである。
現在のオーストラリアの戦略政策は、オーストラリアの国防は特に群島とオーストラリアの北部及び北東部(近い地域)の海陸空ギャップに密接に関わっていること及びオーストラリアの安全保障はより広いアジア太平洋地域と相互に依存していることを認識した、海洋コンセプトの戦略に基づいている。
同時に、1990-91年の湾岸戦争や1993年のソマリアにおける安定作戦のような、多くの米国主導の連合部隊へのオーストラリアの参加は、同盟国への支援及び国連憲章に述べられている集団安全保障の原理を通しての、より広い世界の安定へのオーストラリアのコミットメントを示している。
この活発な地域的アプローチと連合へのオーストラリアのコミットメントとによって、東チモール作戦に代表される国連平和維持使命へのオーストラリア軍の参加が増大している。
2.オーストラリア軍ドクトリンの構成
前項のオーストラリアの戦略が、どのような運用によって遂行されるかをドクトリンによって見ることにするが、その前に先ずドクトリンの構成について紹介する。
オーストラリアの軍事ドクトリンは、武力紛争の性質、役割、及び実施についての思考の母体である。オーストラリア軍(ADF)のドクトリン出版物は大きく二つに分類される。すなわちオーストラリア軍のドクトリン出版物(ADDP)と各軍種のドクトリン出版物である。ADDPは、国防軍司令官(CDF)の権限の下で作成され、ADF全般で使用されるものである。ADDPは、CDFによる統合作戦の実施に関すること、又はADF全般にかかわることをカバーする。ADDPはそのレベルによって、①キャプストン・ドクトリン(戦略レベル)、②キーストン・ドクトリン(戦略/作戦レベル)、③その他の統合ドクトリン(作戦レベル)、の3段階に分けられる。
キャプストン・ドクトリンは、ADFのドクトリン体系の最上位に位置する。その最新のものは、2002年4月に作成された「オーストラリア軍事ドクトリンの基盤」(ADDP-D-Doctrine)であり、ADFの能力の開発と使用のための戦略的な指針を提供する。キーストン・ドクトリンは、統合参謀部の参謀部毎の区分に従って分けられている作戦レベル以下のドクトリンの最上位に位置するものを指し、その分野についての哲学的な思考を提供する。その他の統合ドクトリンは、キーストン・ドクトリンの下につながるもので、軍事能力の適用についてのドクトリンである。
各軍種のドクトリン出版物は、海軍、陸軍、及び空軍のために作成される。これらの出版物は、各軍種の観点からの軍事作戦の戦略、作戦、および戦術レベルをカバーする。
しかして、これらの統合ドクトリン及び各軍種のドクトリンは、ADDP-Dを頂点として首尾一貫している。
3.ドクトリンに見るADFの運用
本項では、ADFドクトリンの頂点にあるADDP-Dの記述によって、ADFの運用について見ることにする。
(1)国政レベル
国防は、憲法で定められたオーストラリア政府の責任である。ADFの運用は、文官の権威者によって執り行われる。ADFは政府に対して責任があり、政府は議会を通してオーストラリア国民に対し責任がある。
戦略的な国防政策を策定することについての憲法上の責任は、疑問の余地はなく議会と首相にある。この権限は次の機関によって執行される。
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内閣
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内閣の国家安全保障委員会、構成員は首相(議長)、副首相、国防大臣、外務大臣、財務長官及び法務長官
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国防大臣、大臣は内閣及び内閣の国家安全保障委員会の決定に従うことに注意
内閣及び内閣の国家安全保障委員会によるADFを派出する決定には、政府全体の合意が必要である。
1903年国防法第8項により、国防大臣はADFの一般的な統制と管理を行う。
1903年国防法第9項により、総督は国防軍司令官(CDF)を任命する。CDFはADFを指揮する。
1903年国防法第9A項により、国防省長官とCDFは、ADFの指揮に関する事項及びその他の大臣によって命ぜられた事項の他は、共同してADFを管理する。CDFと長官は、その権限を大臣の命令により行使する。
オーストラリア憲法第2項及び第61項により、連邦の行政権は女王に属し、女王の名代である総督によって全面的に行使することができる。
憲法第68項によって、女王の名代としての総督が、連邦の国防軍の最高指揮官となる。最高指揮官として総督は、大臣の助言を得て単独で務める。
執行権力は、選挙で選ばれた政府にある。女王及び総督に委託され、そして明らかに軍事指揮権が総督に与えられているけれども、法律の下で総督はただのADFの名目上の指揮官である。女王も、そしてその代理である総督も、ADFの指令又は指揮を行う役割を有しない。
(2)戦略レベルの指揮統制
戦略レベルにおけるADFの指揮統制は次の通りである。
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オーストラリア国防司令部(ADHQ)の補佐を得て、CDFがADFを指揮する。
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海軍司令官、陸軍司令官、及び空軍司令官は、CDFの下でそれぞれの軍を指揮する。(このことは、国防法第9項で定められている。)
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各軍司令官は、CDFに対して、各々の軍の要素を作戦に即応できるように、徴募し、訓練し、及び維持し、そして国防政策、軍事戦略、及びそれぞれの軍の能力と要素の使用について、CDFに助言を行う責任を有する。
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CDFは作戦を直接指揮することを選択することができるが、通常はオーストラリア戦域指揮官(COMAST)を通じてADFの作戦指揮権を行使する。COMASTは、他の作戦レベル指揮官が任命されない場合には、作戦レベル計画立案並びにADFの会戦、作戦、及びその他の活動を遂行する。COMASTは、オーストラリア戦域司令部(HQAST)の支援を受ける。
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CDFは、戦域指揮官として行う作戦のための兵力をCOMASTに配属することを、各軍種の司令官に命ずる。
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COMASTは、配属された部隊に対する作戦指揮の権限を隷下指揮官に委任することができる。
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各軍種の司令官は、それぞれの軍種の部隊が作戦のために配属されているといないとに関わらず、その部隊に対する管理面の権限と責任を保持する。
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オーストラリア政府は、連合又は提携作戦のために、オーストラリア軍部隊を他国の指揮官の下に派出させることがある。他国の指揮官が行使するのは、配属されたオーストラリア軍部隊に対する作戦統制に限られる。これらの部隊は、常に国家の指揮権の下にある。
(3)軍司令官委員会
軍司令官委員会(COSC)は、CDFに対する助言の機関であり、議長としてのCDF、長官、各軍種の司令官、及び国防軍副司令官(VCDF)がメンバーである。CDFは、COSCの責任分野に影響する事項についての討議のために、次官及びその他の必要な人員を迎えて、COSCの人員を増やすことができる。
COSCは、CDFに対し、ADFを指揮すること及び政府に対し軍事面の助言を行うことについての責任を果たすために必要な助言を行う。特に、COSCはCDFに、地域指揮官としてのCOMASTに対する部隊の配属及び物資の支援を含む、戦略レベルの軍事戦略及び計画の承認について助言をする。COSCはまたCDFに対し、軍事戦略、能力と兵力整備、動員、及び国家支援配備のような、ADFについての長期の事項についての助言も行う。
(4)戦略指揮グループ
戦略指揮グループ(SCG)は、枢要な助言グループで、戦略レベルの作戦事項についてCDFに助言をする。SCGはCDF(議長)、長官、VCDF、戦略政策担当次官、3軍の司令官、戦略指揮部長、国防情報局長、及びその他必要な人員で構成される。
SCGの役割は、CDFに対して適時の軍事戦略についての助言を行うことである。
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政府に提供するための、国家戦略の狙いと目的を助ける軍事的対応の選択肢
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軍事的対応の選択肢に関する政府の指令を実行するための、戦略レベルにおけるADFの作戦の指令
(5)戦略指揮部
オーストラリア国防司令部(ADHQ)の戦略指揮部(SCD)は、戦略レベルの作戦におけるADFの指揮統制について、CDFを補佐する。SCDは、CDFに対して軍事参謀としての助言、特に、初期の戦略的選択肢及び戦略的軍事計画の作成に関する事項を用意する。SCDはまた、ADFの統合・連合作戦の戦略レベル指揮統制を調整し、実施を監視し、そしてADFの作戦についての戦略的観点からの参謀所見を用意する。
(6)国防委員会
国防委員会の役割は、大臣及び政府によって求められた結果の達成を助ける、高いレベルの決定を行うことである。これらの決定は、軍事作戦の統合による実施(CDFが唯一の指揮権者となる)、能力の準備、適時のそして適応した国防についての助言、及び人員と資源の適切な処理を含んでいる。委員会は、5年又はそれ以上の長期に焦点を当てたこれらの結果の配布において、指令を与えそして実施を監視する。
国防委員会は、国防長官が議長であり、長官、CDF、VCDF、3軍の司令官、物資担当次官補、政策担当次官、各軍次官、経理部長、技術部長、情報保全担当次官で構成されている。
(7)戦域レベル以下
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オーストラリア戦域司令部(HQAST)は、オーストラリア戦域指揮官(COMAST)の司令部であり、統合参謀の1要素、海洋司令部・陸上司令部・航空司令部の3要素、及び特殊作戦司令部(HQSO)の1要素で構成されている。各構成要素は、COMASTに対し作戦上の助言を行う。状況によっては、特殊部隊指揮官とHQSOの要員は、作戦レベルで独自に働くために分派されることがある。
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北方軍司令部(HQNORCOM)は、北方軍司令官の司令部であり、通常、北部オーストラリアにおける地域作戦レベルで役割を果たす。時には戦術レベルに携わることもある。
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現地統合部隊司令部(DJFHQ)は、通常は戦術レベルの司令部であるが、作戦レベルの役割を果たすこともあり、特に海外に展開した場合にはそうである。
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オーストラリア軍の指揮統制組織
英連邦の一員であるオーストラリアでは、統治権は女王にあり、総督は女王の代行者としてそれを執行することになっているが、これは名目上のことで、実際には選挙で選ばれた首相と内閣が行政権を行使している。
4.我が国の場合
わが国はオーストラリアに較べれば古い国であり、近代的な軍についても明治以降の歴史がある。しかし、一旦軍事力がゼロになった大東亜戦争の終戦後に限って見るならば、新しく生れた自衛隊の歴史はけっして長くはない。
昭和23年5月1日に海上保安庁が発足し、その後の朝鮮戦争の勃発に関連して、昭和25年8月10日に警察予備隊が発足した。昭和26年9月8日には、対日講和条約が署名され独立を回復し、同時に日米安全保障条約を結び、米国の協力を得てその安全を確保することを選択した。昭和27年4月26日に海上保安庁の機関として海上警備隊が発足、同年8月1日には保安庁が設置され、昭和29年7月1日に防衛庁と改められて、陸海空自衛隊が発足した。
昭和20年の終戦から昭和35年の日米安全保障条約改訂までの日米関係は、保護者と被保護者の関係と見なすことができる。この時期に自衛隊は発足したものの兵力は未だ小さく、実質的にはわが国は米国の軍事力に守られていた。そして経済面においてもアメリカの大規模な援助を受けた。
昭和35年の日米安全保障条約の改定から、昭和49年のフォード大統領の訪日までは、後見人・被後見人の関係と見なすことができる。この時期、日本は何かにつけてアメリカに助けてもらいつつ、国際社会で一人前になる努力をし、経済的な力もつけてきた。海上自衛隊を例にあげるならば、この時期には米海軍との共同訓練をしばしば行い、戦術・術力の充実に努めてきた。米海軍は、自分達が使用している米海軍の戦術出版物NWPだけでなく、NATOの出版物であるAP類も、必要なものは海上自衛隊に提供してくれた。
昭和50年の天皇陛下のご訪米に始まる次の時代は、イコール・パートナーシップの時代と言えよう。わが国の経済は相当に発展し、日米のGNP比は1対3にまでなった。その結果、経済面では米国との間に軋轢も生じた。防衛面では着実に自衛隊を整備し、例えば、極東にあるソ連軍の艦艇等の監視を効果的に実施して西側に大きく貢献した。この時代の末期である平成3年12月にソ連が解体して、冷戦は終結した。
終戦後から冷戦の終結までのわが国は、冷戦を戦うという米国の世界戦略に組み込まれていたと見ることができる。後半、自衛隊が防衛力を着実に整備してはきたが、位置付けとしては、オーストラリアが大英帝国(英連邦)の戦略の一部として組み込まれていた時期と似ていると言えよう。
冷戦後の時代における日米関係は、平成8年4月の「日米安全保障共同宣言」及びそれを受けて、平成9年9月に策定された「日米防衛協力のための指針」などに示された新しい時代に入った。すなわち日米同盟がアジア太平洋地域の平和と安定の維持に大きな役割を果たしているという認識である。見方を変えれば、周辺地域ひいては全世界の平和と安定がわが国の平和と安定の維持につながるということである。これは地域の安全保障によるオーストラリアの安全保障という現代のオーストラリアの戦略と通じるものであろう。
わが国の領土、領海、領空に侵攻する敵に対して、米国軍の支援も得て対処することを目指していた自衛隊では、3自衛隊はそれぞれに運用されることになっていた。統合運用の必要性については折に触れて提起されてはいたが、実行の動きにはならなかった。しかし、近年、周辺地域ひいては世界の平和と安定がわが国の平和と安定の維持につながるという認識に至ったこととも関連して、統合運用の実現に向けて大きく動き出した。
ほぼ同じような時期に、地域の安全保障によるオーストラリアの安全保障という戦略を打ち出したオーストラリア軍は、いち早くその運用を統合運用に切り替えた。割合に歴史が浅いので過去のしがらみに捕らわれず論理的に必要と考えることを実施することができるし、小規模な軍隊であるので、無用な重複を省いて効率的な運用を目指すこととなる。例えば、英国では各軍種別の運用があるとしていることに対して、全てが統合運用としている点はその例である。
今後のわが国の統合運用を実現する上で参考にし得るものが多く含まれていると考えるので、その概要を紹介した。
参考文献
1 Australian Defence Headquarter, Foundations of Australian Military Doctrine
(ADDP-D), (April 2002)
2 松浦晃一郎『歴史としての日米関係』(サイマル出版社1992年6月)