2015年6月2日火曜日

【大日本帝国の遺産】旧日本陸軍の傑作戦闘機たち

【元日本軍の撃墜王】81の空中戦でも「絶対の自信あった」
2015530 160 http://news.livedoor.com/article/detail/10172699/NEWSポストセブン

 戦後70年の節目に読んでおきたい、元日本軍エースパイロットたちが語る戦場秘話。話題の新刊『撃墜王は生きている!』(井上和彦著、小学館)より、日本陸軍においてB29爆撃機を5機撃墜、7機撃破、さらにその他の敵戦闘機を3機撃墜した、まさに「撃墜のエース」だった生野文介・元大尉の証言を紹介する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三式戦闘機 (陸軍三式戦闘機)
 
 
生野大尉が「飛燕」戦闘機から五式戦闘機に乗り替えた昭和205月のことだ。B29の迎撃戦の帰り、厚木上空で米軍戦闘機P51「ムスタング」の8機編隊が南に向かうのを発見した。P51は、第二次大戦中、最強の戦闘機と賞賛された戦闘機だ。生野大尉は、「帰る前にひとつ攻撃しようと思って」わずか1機で敵編隊の下に潜り攻撃を試みる。

 ところがその瞬間、敵編隊の先頭4機が空になった増槽(長距離を飛ぶために追加する燃料タンク)を捨てて身軽になり、旋回を始めた。戦闘開始の合図だ。気づかれたとわかった生野大尉は自機を旋回させて射撃。ところが、一撃しただけで弾切れになるという非常事態に陥った。その状態で81という格闘戦を行ないながら、見事に敵の攻撃をかわして帰還したのである。生野氏は言う。
P51は確かに速度がありましたね。だけどそれだけではね。空中戦の技量、テクニックがなければだめなんです」
 かつて雑誌のインタビューにて、P51に墜とされる不安はなかったかと聞かれた生野氏は、「ないですね。もう絶対に自信があった」と答えている。あとで機体を確認したところ、このときの戦闘で24発も被弾していたとのことで、その胆力には恐れ入る。

井上和彦・著/『撃墜王は生きている!』より

四式戦闘機と五式戦闘機とどちらが優秀か?
旧日本陸軍四式戦闘機疾風(http://www.success1.co.jp/ModeClub/clip/4siki.htmlより

「四式戦」は本格的な量産機です。
エンジンには、日本で初めて実用化された2000馬力級エンジン「ハ‐45」を積んだ、絶対溢れるほどに反論されますが、本来の「日本最優秀戦闘機」です。
ただ、問題となったのはこのエンジンで、この時代、世界のエンジンはたった5年くらいで一気に1000馬力から倍の2000馬力にアップしたのですが、日本はなんとかそういうエンジンを設計して作る技術まではあったのですが、「量産」する技術が無かったのですね。
 さらに言えば、それを整備して運用する能力にも欠けていたんです。だから、「四式戦」の性能の記録はいろいろ矛盾したものが存在しています。

最も高性能なものは、アメリカに戦後送られたものです。
つまらない、細かいデータを言っても意味がないのですが、この機体はテストで「P51」を軽くひねっています。
アメリカ軍でも、「2000馬力戦闘機なんだから当たり前」という対応をしています(P511500馬力)。
 最もショボイものは、飛ぶこともままならない機体が多数ありました。
 これは、いろんな分析がされていますが、結果として今日でも、「定説」がありません。
 要するに、日本の量産技術、整備技術では、生産、維持が難しかったということだけです。
これは初期からわかっていた事実でしたが、最後まで解決できませんでした。
 いろんな原因が考えられましたが、材料や燃料の劣化のみではない、製造チーム、整備チームの優劣、また、形式番号で把握できない小改修も結果を左右したようです。
 全国の部隊が沖縄戦で終結していた九州では、成増の47戦隊などは、「よそはいつもエンジン整備してるのにすぐ不調で帰ってくる、おたくはほとんどいじってないのに1機も帰ってこないのはなぜですか?」と聞かれたそうです。

おそらく、いずれもわずかな理解の差なのでしょうが、両極端な結果を生んでいるのです。
 対して、「五式戦」は全くの寄せ集めの急造戦闘機です。
エンジン不足で機体が余った「三式戦」の細い機体に、元々爆撃機なんかに使ってたちょっと太めの古いエンジン(ハ-112)が、改良してたら1500馬力くらいで安定して回るようにできたので、この二つを繋いで、隙間にはカバーしちゃったらいい感じになった、というものです。
間に合わせなんで、生産も400機足らず(疾風は3600機)、量産機としては、ついに連合軍に気付いてもらえなかった唯一の機体です(コードネームがない)。
まあ、それなりにその時「使えるモノ」を組み合わせて作ったんで、信頼性はえらく高く、しかも、そんなプロの職人でなくても気軽に動かせたので、いろいろ不安定になっちゃった末期では得難い機体となった訳です。
 つまりは、「大東亜決戦機」として期待され、無理な「量産」を強行されて「安定を失った優秀機」と、残り物の良品を組み合わせて作った「信頼性の高い寄せ集め」を同列で比べても、あんまり意味がないです。
 例えば、「五式戦」を「四式戦」なみに量産して、品質を維持できた保証はどこにもない、だいたい。「四式戦」を無理せず400機しか
作らなかったら信頼性を維持できたかもしれないのです。
 これ以外にもいろんな要素があって、「ハ-45」を作る「中島」と「112」を作る「三菱」の社風の違いというのもあって、「五式戦」というのは確かに「スグレモノ」でしたが、そこまでが限界ではないかな?とも思われます。
 「ゼロ戦」が「三菱」の設計ながら、「中島」の方がたくさん作っているって事実をご存知でしょうか?
「三菱」は「品質管理」に優れた会社でしたが、いくら言ってもちっとも生産が増えていかない。
航空機は、「性能」も大事ですが、ともかく基本の数が揃わないことにはどうしようもない、だから、海軍は「中島」にも声をかけた訳です。
「中島」はそれに答えて、微妙に自分のところで作りやすいようにいじったりして、大量の「ゼロ戦」を納品し続けたのですが、正直それは、無理して作っている分、「・・・のようなもの」という点があり、明らかな性能低下もあった訳です。
それでも、次第に「中島製ゼロ戦」が主力となり、日本の防空の末期を支えていくことになるわけです。
「五式戦」と「四式戦」の関係は、「三菱ゼロ戦」と「中島ゼロ戦」みたいな点があります。
程度の悪い「四式戦の性能」は、安定した「五式戦の性能」を、あるいは下回ったかもしれません、でも日本の防空により貢献しているのは、やはり9倍の数を作られた「四式戦」の方なのです。

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