もっと助けられたら 3.11の教訓
NHKスペシャル「史上最大の救出~震災・緊急
消防援助隊の記録~」
隊員たちが備える次の災害対策とは?
田部康喜 (ジャーナリスト)2015年03月04日(Wed) http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4769?page=1
日本大震災からまもなく4年が経とうとしている。震災地やその救援にかかわった人々はいまもその記憶を忘れない。
阪神・淡路大震災を教訓にして誕生した、緊急消防援助隊が初めて直面した大災害が3.11であった。NHKスペシャル「史上最大の救出~震災・緊急消防援助隊の記憶~」(3月1日、再放送予定・5日午前0時40分~1時29分)は、隊員たちの震災当時の苦闘と、そこから学んで次の大災害に備えようとしている彼らの記録である。
「あの日に現地に到着していたら」
東日本大震災の死者・行方不明者は1万8480人。これに対して、救助された人の数は2万7577人である。
緊急消防援助隊は都道府県ごとに組織されている、災害救出のプロ集団である。ヘリコプターを利用した空からの救助と地上の救助部隊からなる。大震災の救助活動を教訓とするために、各部隊には膨大な映像記録が残されている。
番組は、隊員隊たちのインタビューをはさみながら進行する。
2011年3月11日午後2時46分、宮城県庁は6分以上にも及ぶ激しい地震の揺れに揺さぶられた。対策本部が設置されたのが午後3時30分、この時、テレビの画面には気仙沼地方を襲った巨大津波の映像が映し出される。
県の危機管理担当官の小松宏行がインタビューに登場する。のちに、史上最大の救出劇のキーマンとなる人物である。
対策本部は携帯や無線によって、県内の被害状況を把握しようとするが、そのインフラは遮断されていた。
「被害の状況がまったくわかりませんでした」
午後3時36分、小松は政府に対して、緊急消防援助隊の出動を要請する。全国の援助隊のヘリコプターは75機、隊員は4600人である。
熊本隊の副隊長である西村澄生は巨大地震が発生直後から、休日の隊員も呼び出した。直線距離で1000㎞ある宮城県まで、いったいどのようにして飛行するか、果たして行き着けるだろうか。
そんな思いを抱きつつ、西村ら9人の隊員が乗ったヘリコプターが離陸したのは、午後4時18分。それと呼応するように、全国の15機が宮城県を目指した。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4769?page=2
救出活動を優先 現場の判断を信じる
夕刻になって、現地は雪となった。夜間の飛行と救助作業は難しい。埼玉県にある本田エアポートにいったん駐機して、翌日からの活動を再開することになった。
「あの日に現地に到着していたら」と西村は悔やむ。
実は、ヘリコプターの受け入れ体制も巨大津波によって破壊されていた。大災害において、宮城県内の仙台空港や自衛隊の基地など4カ所の飛行場が拠点となるはずだったが、そのうち3カ所は使用でなくなった。燃料保管倉庫も被害を受けた。
緊急消防援助隊のヘリコプターは、燃料が切れかかると、往復1時間かかかる山形空港を利用するしかなかった。
熊本隊の西村が石巻市上空に達したのは、12日9時30分。本部の指示はまず、被害状況の把握だったが、津波で水没した家屋の屋根で手を振る人の姿を認めると、救出活動を優先しながら、被害状況を合わせて把握するのがよい、と判断した。
西村は本部にその旨を告げる。
この時、危機担当官の小松は、現場を信じて、救出作業を任せることにした。
「出たとこ勝負でした」
サーチ&レスキューが全国から集まったヘリコプターに伝えられた。
12日の1日間にヘリコプターが救出した人数は、650人にのぼった。
新たな災害対策の道を探る
愛知隊の地上部隊の一員だった、原科亨介はいまもひとりの女性の死を忘れられない。3月20日午前9過ぎ、津波の被害を受けて1階が壊滅していたが、2階部分が残っていたので、生存者の可能性を信じて捜索にあたった。
屋根の部分に渡辺きみ子さんを発見する。手には携帯電話が握られていた。
「呼吸と脈をみて、死亡を確認しました。もっと前に行こうと思って発見が早ければと思います。また、常日頃からもっと訓練していればと。水の中でも出ていける力をつけていれば……」
緊急消防援助隊の隊員たちは過去に悔いているばかりではなく、新たな災害対策の道を探ろうとしている。
愛知隊の原科は、救援活動に関して民間企業と勉強会を開いて、新しい捜索手法を探っている。そのひとつが、「捜索支援地図」である。
大災害が起きた直後に、空撮を行うとともに、災害前の地図と重ね合わせる。これまでの捜索の経験と照らし合わせて、土地が削り取られた地点よりも、災害によって土砂が貯まった地点に生存者がいる可能性が高い。これに基づいて、捜索するのである。
広島県で最近起こった土砂崩れの現場で、この手法が取り入れられた。
ヘリコプターの救出作業にたずさわった隊員たちを悔しがらせた、雪のなかや夜間の飛行技術についても、進化しようとしている。計器飛行と、レーダーを活用した飛行である。
捜索には、人を発見するために赤外線カメラの利用が考えられている。
東日本大震災は、危機管理についてさまざまな教訓を読み取ることができる。
あの時、宮城県の危機管理担当管の小松が、被害状況の把握を第一としたままだったら、どうなっていただろうか。震災後の雪と寒さのなかで、実際に低体温症となって、亡くなった人も多いのである。災害報道に力点を置く公共放送の姿勢はまことに正しい。
被災者救出 自衛隊ヘリの操縦術
消防局被災地派遣職員報告会
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