2020年2月25日火曜日

情報部別班 ~自衛隊の諜報戦部隊の正体~ 陸軍中野学校の精神は後世に引き継がれる

陸上自衛隊の秘密情報戦部隊「陸上幕僚監部運用支援・情報部別班」について
 我が国にもヒューミントの収集活動を行う極秘の情報組織がありました。冷戦時代から首相や防衛大臣に知らせることなく、独断でロシア、共産中国、韓国、東欧などに拠点を設置し、身分を偽装した自衛官に情報活動をさせている。
 別班は「DIT」(防衛情報チーム)とも呼ばれる。数十人のメンバーで構成される。全員が陸上自衛隊小平学校の「心理戦防護課程」の修了者である。陸自小平学校の心理戦防護課程は、諜報(密かに情報を収集すること)、防諜(スパイの侵入、活動を防ぐこと)、などの活動を教育、訓練を行った旧陸軍中野学校の後継機関(スパイ養成所)といわれる。
 心理戦防護課程の同期生は、数人~十数人おり、その首席修了者だけが別班員になれる。ただ首席でも一定の基準に達していないと採用されない。
 別班の海外展開は冷戦時代にはじまり、主に旧ソビエト連邦、共産中国、北朝鮮に関する情報収集を目的に、国や都市を変えながら常時三か所程度の拠点を維持、最近はロシア、韓国、ポーランドなどで活動しているといわれる。
 別班員を海外に派遣する際には、自衛官の籍を抹消し、他省庁の職員に身分を変えることもあるといわれる。現地では日本商社の支店などを装い、社員になりすました別班員が協力者を使って軍事、政治、治安情報を収集した。出所を明示せずに陸幕長と情報本部長に情報をあげる仕組みが整っている。
 身分偽装まで行う海外情報活動に法的根拠はない。資金の予算上の処理なども明確でない。冷戦時代の別班発足当初はアメリカ陸軍の指揮下において活動したとされる。陸幕運用支援・情報部長の直轄となった現在でも「米軍と密接な関係がある」と指摘する関係者は多い。

  2018年に入って部隊同士の連携がなかった陸海空3自衛隊のヒューミント部隊を防衛省情報本部が一元管理する仕組みに防衛省が改めた。注目すべきは、陸海空の自衛隊のヒューミント部隊の中核をなすのが、首相、防衛相も存在を知らされない非公然部隊「別班」である。「国民にも、国会にも『別班など過去も現在も存在しない』という説明を繰り返していればいいんだ。」という言は、防衛相、自衛隊の一種の開き直り、横暴ともとらえることができる。

 情報本部別班は、冷戦時代から現在に至るまで海外に拠点を設置し、身分を偽装した自衛官に情報活動をさせてきた。陸上幕僚長、情報本部長という極めて責任が重いポストの経験者の証言によって、首相、防衛相にも知らせずに別班が現在も身分偽装した自衛官に海外で情報収集活動をさせている事実が明らかになった。

 海外にもアメリカのDIA(国防情報局)のように対外ヒューミントを行う軍事組織は存在する。しかしそれらは文民統制が徹底されており、自衛隊の別班とは明白に異なる組織であるといわれる。

 非合法な任務の遂行さえ求められる別班員は、自らの仕事内容を家族や知人に一切明かすことは許されない。そればかりか「年賀状をだすな。」「防衛大学校の同期会にはいくな。」などと他者との関りを絶つよう厳しく指示される。

 そのため別班員の中には、自らの複雑な胸中を吐露する者もいる。

「妻子に対しても、心の中で壁を作ってしまう」
「親友がいなくなった。人生を変えられてしまった」
「別班は人を騙して情報をとる。違法なことを含めて」
「何かあれば蜥蜴のしっぽ切りであろう」
「自分に何かあったとき、家族がどうなるのかつ常に心配であった」

これが納得できないなら、秘密諜報員になどなるべきではない。

情報部別班の任務
情報源捜索と身辺調査を行うための尾行・盗聴

「駅のホームで電車を待つときは、最前列で待つな。」(事故や投身自殺にみせかけて対象を殺す?)
「特に痴漢にでっちあげられることに注意しろ。酔っぱらって電車に乗るな。」(痴漢冤罪をでっちあげて社会的に対象を抹殺する?)

主な任務はスパイ活動
 別班は、中国や欧州などにダミーの民間企業を作って別班員を民間人として派遣し、ヒューミントの収集活動をさせている。
 国内においても在日朝鮮人を買収して抱き込み、北朝鮮に入国させて情報を遅らせる一方、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総漣)にも情報提供者を作り、内部で工作活動をさせているといわれる。またアメリカ軍の情報部隊やアメリカ中央情報局(CIA)とは頻繁に情報交換するなど緊密な関係を築き、自ら収集、交換して得た情報は、陸上幕僚長と防衛省情報本部長(情報収集・分析の責任者)にあげている。

どのような人物が選抜されているのか?
陸上自衛隊調査部(現在・指揮通信システム・情報部)
調査隊(現在・情報保全隊)
中央地理隊(現在・中央情報隊地理情報隊)
中央資料隊(現在・中央情報隊基礎情報隊)
 これら情報部門の関係者の中で、突然連絡がとれなくなる者がいる。これが情報部別班員であるといわれる。
 別班員となると一切の公的な場所には行かないように指示をだされる。表の場面場所からすべて身を引くことを強制される。
「年賀状を出すな」
「防衛大学校の同期会にはいくな」
「自宅に表札をだすな」
「通勤経路は毎日変えろ」

豊富な活動資金
「領収書は要求されたことはない」
陸上幕僚監部の運用支援・情報部長の指揮下の部隊であるが、一切の支出には決裁が不要である。情報提供料名目で1回300万円までは自由に使える。資金が不足した時は情報本部から提供してもらえる。
「金が余ったら自分たちで飲み食いもした。天国だった。」

陸上幕僚監部調査部別室
(調別=チョウベツ)
陸上幕僚監部第2部別室(2別)の後身組織。現在の防衛省情報本部電波部の前身組織にあたる。シギント(SIGINT=通信、電波、信号などを傍受して情報を得る諜報活動)を実施する。こちらは情報本部別班とは違って、公表されている組織。

調別時代から室長は警察官僚が務める。電波部長も例外なく警察官僚がポストについている。警察庁にとっては、絶対手放したくない重要対外情報の宝庫となっている。特にロシア、共産中国、北朝鮮については、アメリカの情報機関でさえ一目おいている存在である。

1983年のサハリン沖大韓航空機撃墜事件で大韓航空機を撃墜した旧ソビエト連邦戦闘機が地上管制と無線交信した内容を調査部別室の東千歳通信所が傍受、国連でアメリカがそのデータを公表して旧ソビエト連邦を追求した。

「調別」と「別班」の違い
「特勤班」や「二部分室」、あるいは「別班」と略したが、「別班」というのが最後に定着した。二部に通信傍受を扱う「別室」という部署があり、早くから世に知られていたが、「別室」と「別班」であったら紛らわしくて目くらましの効用もあるだろう?ということで、「別班」を使うことになったのである。

別班のなりたち

別班は、陸上幕僚監部の「第2部別班」を振り出しに、組織改編による「調査部別班」を経て、「運用支援・情報部別班」が正式な名称(2008年時点)であるといわれる。

その後さらなる組織改編によって2017年3月に「指揮通信システム・情報部別班」となっている。通称「DIT」と呼ばれており、これは「DEFENSE INTELLIGENCE TEAM」の頭文字をとった略称であるようである。

トップの班長は1等陸佐であり、外国軍の大佐に相当する。歴代の陸上自衛隊の情報部門出身者が班長を務め、人事的ルートが確立している。ただし全体像を把握する関係者が極めて限られているため、班員数など別班の詳細は不明なのである。

別班は表向きには存在しないことになっている秘密組織ながら、陸上幕僚監部運用支援・情報部長(当時)の直属で、本部は防衛省がある市ヶ谷駐屯地内に堂々と存在しているといわれている。



【動画でみる自衛隊のインテリジェンス】
陸上幕僚監部運用支援・情報部別班(DIT) ~元国内メンバーが語る実態~ https://www.youtube.com/watch?v=GKkweIQIZis
【驚愕】ご存知か? 日本諜報機関 自衛隊 「別班」
https://www.youtube.com/watch?v=psdlHELK40M
「情報部別班は存在しない」と断言 小野寺防衛相 11/28 参院
https://www.youtube.com/watch?v=t-Qf65qFgNY
動画でわかる!陸上自衛隊小平学校
諜報機関は極秘事項ですから、政府答弁では否定するものなんです。活動まで細々と全面公開されている諜報機関があったら怖いです。
https://www.youtube.com/watch?v=peOUGtq4CQ4

【すべてはここから始まる】
陸軍中野学校の正体
秘密戦といわれるが、我が国における諜報戦、情報戦の工作員を養成する軍の教育機関。スパイの養成学校はどこの国にもあり、自国に最大限の国益をもたらすために、軍事作戦を有利に展開させるために、諜報戦の訓練を行っていた。これもまた「戦争」であり、軍事なのである。

陸軍中野学校-りくぐんなかのがっこう-  (驚きももの木20世紀) https://www.youtube.com/watch?v=T8uQ4Onot-U
「諜報は誠なり。」~海外で諜報活動を行うためには必要不可欠な精神。

陸軍中野学校は、昭和13年(1938)1月に出された勅令「後方勤務要員養成所」令に基づき設置された「後方勤務要員養成所」にはじまる。7月に九段牛ケ淵の愛国婦人会本部の別館に開所し、看板は「陸軍省分室」と掲げられた。このとき入所した学生は一般大学や高等専門学校、中等学校を卒業したもので、陸大や陸士などの軍の学校を卒業した者はいなかった。入所した学生は19名、1名が中途退学し、残る18名が第1期生として卒業した。

第1期生が愛国婦人会別館で教育をうけた期間は1年1ケ月で、昭和14年(1939)4月には中野の陸軍電信跡地に養成所は移転し、学生は引き続き同地で教育を受け、卒業したのは昭和14年8月であった。第1期生の教育は牛ケ淵時代が長く、中野で教育をうけたのは1ケ月余りであった。卒業した18名の任地は省部以外にコロンビア、アフガニスタン、英領インド、支那、ソ連、ドイツ、蘭領東インド(今のインドネシア)などの海外勤務で、職業は商社マン、新聞記者、外務書記生などに身分を偽へんして赴任していった。引き続き学校には予備士官学校卒業生(予備士・乙)と陸軍教導学校卒業生(丙)が入校し、この時期は「乙」と「丙」の二種類に学生は区分されていた。教育機関10ケ月と短く、短期速成の教育であった。

陸軍中野学校組織図
校長・幹事
本部~ 校務一般および教務、事務。
教育部~ 教官は編成以外に陸軍省、参謀本部、兵器行政本部、その他外部教育機関の兼任教官であった。
研究部~ 文章的資料の収集、評価が業務。
学生部~ 職員は訓育および術科教育を担当。
実験隊~ 秘密戦兵器の研究、実験、学生への実科の教育を担当。登戸研究所の試作兵器の実験なども担当。
二俣分校~ 遊撃戦幹部要員の教育。

中野学校の名称は秘匿され、外部向けには「陸軍通信研究所」「東部第33部隊」という名称が使われた。この期の学生は、「後方勤務要員養成所」に入所し、卒業したのは「陸軍中野学校」ということになる。

昭和15年8月「陸軍中野学校」令が制定されて管制上、初めて軍の学校として東京中野の地に建学されたことから、「中野学校」の名称が内部で使われ、この時期から学生は陸軍士官学校(陸士)出身者や予備士官学校(予備士)出身者以外からも大量の陸軍教導学校(隊)出身の下士官も選抜されて入校してきた。この時期の卒業生は「前期卒」と呼ばれていた。

陸軍中野学校令では学生の区分を3つのカテゴリーにわけ「甲種学生」が陸士出身者、「乙種学生」が予備士出身者、「丙種学生」が教導学校(隊)出身者と区分した。その後、太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)10月に学校の所管が陸軍省から参謀本部に移管されて直轄校となり、学生の種別も次の3種に改正された。
甲種学生を乙種学生とす
乙種学生を丙種学生とす
丙種学生を戊種学生(教導学校出身者)とす
この時期から学生は、「乙、丙、戊」の3種に分けられ、この制度は終戦まで続くが実態は「乙種学生」の入学者はほとんどおらず、「丙種学生」と「戊学生」が主体であった。この時期の卒業生を「後期卒」と呼んでいる。

昭和19年(1944)8月には、ゲリラ戦の専門教育を施すために静岡県磐田郡二俣町(現在浜松市二俣町)に「陸軍中野学校二俣分教所」が開所している。

新制度での最初の学生は乙種が「一乙」と呼ばれ、丙種学生は「三丙」、戊種学生は「三戊」と呼ばれた。しかし乙と戊は不都合がなかったものの、丙、すなわち予備士官学校出身の学生は、既に先に三期の学生が卒業しているので、本来なら「四丙」と呼ぶべきところを、学校当局は養成所時代の卒業生である第1期生は別格として、次の期別からは一期くりあげて「三丙」と卒業年次を数えることになった。

従って卒業期は三期ではなく「四期生」ということになり、三丙と三戊の学生は開戦前の昭和16年9月に入校して、三丙は翌年11月に卒業。三戊は2月に卒業した。三丙と三戊は同時入学であったが、丙種学生は専門教科の教育が長かったため、三戊の学生よりも9ケ月遅れて卒業した。

陸軍登戸研究所-りくぐんのぼりとけんきゅうじょ-(驚きももの木20世紀) https://www.youtube.com/watch?v=R3J9KCQ8XRo
第9陸軍技術研究所=登戸研究所。我が国のインテリジェンス戦を技術面でサポートした。高度化する秘密戦に備えて組織された極秘防諜機関“ヤマ”。

『陸軍中野学校』(中野校友会編)では、「登戸研究所」と「中野学校」の関係が説明されている。
 
陸軍中野学校が諜報、宣伝、謀略、占領地行政等の秘密戦に関わる要員の人的養成機関であるのに対して、登戸研究所は秘密を物質的に支える資材、器材の研究、開発及び製造機関であった。従って登戸研究所の技術開発には、中野学校出身者の実用意見が数多く取り入れられ、また中野学校出身者の担当任務には、この研究所で製造した資材、器材が必要不可欠なものが多かった。このため、登戸研究所と中野学校との間には密接不可分の関係があり、8名の中野出身者が登戸研究所に派遣されたというのも当然といえよう。

密接不可分の関係とは、簡単にいえば「兄弟」の関係で、中野学校の卒業生が“沈黙の戦場”で諜報活動や破壊工作を行う時に、彼らの武器となるのは登戸研究所で作られた秘密の道具であった。具体的に列挙すると以下のようになる。

無線傍受用全波受信機
諜者用無線機
不法電波探索用探知機
有線無線電話盗聴用増幅器
携帯用録音機
紫外線/赤外線型秘密インキ
マイクロ写真機
小型偽装写真機(ライター型、マッチ型、ステッキ型、鞄型、ボタン型)
望遠用写真機
夜間撮影用暗中写真機(実用化されず)
時計式時限信管
科学時限信管
温度信管
偽装拳銃(万年筆型、ステッキ型)
缶詰爆弾

関連機材を含めると200点余りの多種多彩なスパイ道具が実戦投入されていた。これらはいずれも中野学校の実験隊で徹底的に試験され、合格した製品だけが、採用されるのである。

小野田寛郎の三十年戦争
https://www.youtube.com/watch?v=CFhqFhEsvCw
昭和19年(1944)8月には、ゲリラ戦の専門教育を施すために静岡県磐田郡二俣町(現在浜松市二俣町)に「陸軍中野学校二俣分教所」が開所している。“最後の帰還兵”として知られた小野田寛郎氏は、二俣分教所の第1期生(教育機関4ケ月ほど)であった。

中野学校の卒業生は、太平洋戦争が始まる以前から、中国戦線で蒋介石国民党を相手に諜報戦を繰り広げていた。配属されたのはシナ総軍の指揮下にある戦域の情報部門にのべ200名、満州に駐屯する関東軍の情報部門では、対ソ情報の収集と謀略活動が行われていた。中でも関東軍情報部(通称:ハルビン特務機関/ハル特)には、90名の卒業生が派遣されていた。

例として1期生の猪俣甚弥大尉が配属されたハル特の任務を見てみると、猪俣氏はハル特の第4班に所属して「対ソ威力謀略」を担当している。威力謀略の任務とは、ゲリラ戦による敵地への潜入と破壊工作が主な仕事で、要員の訓練も併せて行っていた。ゲリラ戦は「遊撃戦」と称され、中野学校の得意とする戦法であった。訓練は、無線傍受用電波受信機、諜者用無線機、マイクロ写真機、各種偽装爆弾を使って実戦さながらのシュミレーションが行われていた。猪俣氏が訓練したのは白系ロシア人であった。

開戦以後は、1期生の他に2期生、3期生が卒業後中国、満州をはじめ、南方戦線に投入され、東南アジアのほぼ全域で諜報活動をはじめている。しかし卒業生の中には海外任務だけでなく、国内勤務組みもいて、その中で防諜専門(カウンターインテリジェンス)の組織に配属された者もいた。この組織は部内では「ヤマ機関」と秘匿名が付せられていた。誕生したのは中野学校が創設される2年前の昭和11年(1936)12月で、場所は東京牛込若松町(現在新宿区若松町)の陸軍軍医学校の敷地内であった。

当初の所管は陸軍省兵務局兵務課だが、後年は防衛課の所管となり、「兵務局分室」の看板を掲げて「ヤマ機関」の司令塔になったのである。この組織の存在を認知していたのは、陸軍大臣、次官、憲兵司令官の3人で指揮系統は兵務局防衛課に属していたが、防衛課は世間を欺くための指揮系統であり、実際の指揮命令権は陸軍省軍事資料部長にあり、陸軍大臣直轄の極秘防諜機関であった。

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