2015年11月8日日曜日

元陸上自衛隊幕僚幹部 元米国デュピュイ戦略研究所東アジア代表  松村劭氏の戦術論③

ここを見直せ「防衛計画の大綱」

松村劭 2003.04.04

防衛庁のアドバルーン

 鎖国で太平の夢を見ていた幕府が、迫り来るロシアの脅威を「怖いものは考えたくない」と拒否していたころ、仙台藩の林子平は「海国兵談」を著わして罪を問われ「親もなく、妻なし子なし版木なし、金もなけれど死にたくもなし」と辞世を残した。
 高野長英、渡辺崋山も幕政を批判して獄につながれ、高嶋秋帆も伝馬町送りになった。彼らを獄に送り、日本軍の近代化を阻止し、遅らせたのは幕府に勤めるエリート官僚たちだったのだ。幕府の官僚で優れていたのは、不思議なことに勝海舟のような下級官僚である。彼らは思い切った現状見直しを行う。
 最近、防衛庁は、


(
) PKOを自衛隊の主任務に加えたい。
(
) 統合指揮システムを造りたい。
(
) ゲリラ・テロ、コマンドウ対処の専門部隊を造りたい。 


と大綱の見直しをするアドバルーンを上げた。今のところ、どこからも抵抗がないようだから、まもなく一歩踏み出すだろう。まさか、見直し反対で改革論者を獄に送れという官僚はいまい。
 しかし、「国防の基本方針から見直しの手をつけろ」と主張すれば、大部分の政治家・官僚から反対の大合唱が起きるだろう。そんな面倒なことはしないのが官僚である。要は上記のアドバルーンの三項目を現在の法体系と国会答弁の経緯の中に抵抗なくすんなりと収めようとする。官僚はこれが上手い。これでは見直しを打ち出した官僚は良い官僚かもしれないが、対症療法の見直しに留めれば悪い官僚になる。クラウゼヴィッツが言う知的勇気のある官僚の活躍を期待したい。


戸惑う軍事評論

米国のイラク攻撃、北朝鮮の瀬戸際政策、韓国の反米感情、国連の形骸化の時代を迎えて、日本のマスコミに出演する人々の見解は、国連の理想という幻想に引き摺られながら、現実に直面する米国の強引な対イラク姿勢に戸惑い、なんとか北朝鮮問題にリンクさせて、日本の選択を解説している。そこには戦略理論がまったく欠落している。
 多くの解説者の潜在意識には、戦争は悪だという国連の先入観があって国際情勢や日本の対応を考えるから、現実から乖離したり、混乱した議論になる。
 国連は戦争は悪だとしたために、戦争における騎士道のルールをごみ箱に捨ててしまった。宣戦布告がなくなり、戦争裁判、武装解除、敗者の地位剥奪などを行なって敗者への礼儀を失ってしまった。こうして国連が誕生してから、汚い戦争が増えた。戦争は「理想論が戦争を生み、戦争論が戦争を抑制する」という逆説の世界であることを忘れている。 また、法学者や法をもって仕事をする政治家は、法理論が先験的に存在していて現実はそれに従わなければならないという観念に固縛されている。だから、米国のアフガン戦争やイラク攻撃論、北朝鮮の拉致対処について、法的解釈ができないと、
「法理に適わないものは、すべて悪い」
 と専断的に結論を出すことになる。法理論もまた後験科学であることを忘れているのだ。
 このような先入観や偏見を捨てることが国際情勢の判断を誤らないために必要であり、防衛政策を再出発する道である。すなわち、
「話し合って妥協のない生命がけの対立は、戦うしか答えは得られない。このとき戦意ある二者が相戦うことは正当である。ただし、戦意を失った相手に戦うことは悪である」
 という歴史の原則に従うことである。戦争は手段であって目的ではない。手段そのものに善も悪もない。問題は大義名分である。 例えば、「戦争を医療における外科手術、話し合いを内科投薬」と見立てて北朝鮮の現況を見てみよう。金正日政権という悪性腫瘍を放置しておけば、周辺に害毒を撒き散らすだけでなく、北朝鮮という国家そのものが死滅してしまう。
 国際社会が金正日政権を悪性腫瘍と認知すれば、あとは外科手術で切り取るか、投薬治療するかであるが、内科療法では金正日政権が国際秩序を守るような善良な政権に変わりそうもない。
 大量破壊兵器を製造しようとしたり、日本人や韓国人などを拉致したり、麻薬を密輸しているから、この悪性腫瘍を切り取る外科手術(戦争)は歓迎すべきであるということになる。医療では、手術も有益な手段なのだ。
 国際連合という戦争と平和のシステムは、冷戦時代を過ぎて現実に適合しなくなった。あたかも国際連盟が米国の大恐慌のあと、世界の現実に適合しなくなったのと同じ運命の道を歩んでいる。
 世界は、フランス・ドイツを中心とする大陸国家の西欧陣営、同じく大陸国家のロシア陣営と中国陣営が海洋国家の米・英陣営に対抗して影響力の「陣取り合戦」を演ずる時代になった。世界秩序のあり方が戦史二六〇〇年の本流
に立ち返ったのである。戦鼓の響きが次第に近づく国際秩序の変化に適応するために、日本は、これまでの防衛政策を根本から見直すときにきている。


法理と戦理

 法律論で国を守る計画を造って国防を果たした歴史はない。国防は戦争の理論で計画し、法律論がもつともらしく後付けしてきたのが歴史である。 一九世紀初め、英国議会が定めた法律「戦闘教令(Fighting instructions)」に違反してトラファルガーの海戦に勝利したネルソン提督は戦理で法理を破って英国を波涛の支配者に育てた。これ以来、英国では、
「国家の存在基盤は『力(might)』である。国家を治めるものは『法(law)』であるが、法は力の支持がなければ維持できないからだ」という考え方が定着した。サッチャー元英首相曰く、 


「正義に力を与えよ。」


 敗戦以来、日本の防衛論は法律論で論じられてきた。戦いの理論で防衛を論ずると「極右」のように村八分にされた。もちろん、マスコミの世界から弾き出される。しかし、戦争は「力の論理」で勝利する。「法の論理」で防衛戦争
に勝てないことは世界の常識である。それは法律論でオリンピックの金メダルを得ることができないとの同じである。
 だから、新しい防衛庁長官が、
「防衛計画の大綱を見直したい」
 と言うなら、「戦理」に適った見直しであることが大前提である。もちろん、防衛庁長官も見直しのドラフトを書く防衛官僚も「法理」で仕事する。見直しにかかわる国会での答弁も「法理」で答える。
 だから戦理での議論は、軍人がすべき世界である。昨近の元自衛隊の将官がマスコミで防衛問題を語るとき、法律的な観点から論ずるのは筋違いである。彼らこそ「戦理」で防衛問題を語らなければ、日本で誰が日本の国防問題を戦いの論理で国民に説明するというのか?


見直しの順序

防衛庁が防衛計画の大綱を見直すのであれば、その骨幹である()「国防の基本方針」から見直さなければならない。方針は目標を明らかにすることである。
 基本方針が決まれば、その目標に基づいて()「いかに国を守るために戦うか」の戦略を考えるのが常識である。消防隊が火事に直面したときに「いかに消火するか」を考えるのとおなじであり、暴漢が家宅に侵入してくれば、「どのように戦うか」を考えるのと同じである。ここで()「消火計画」や「戦う計画」を造っておくことは重要である。
  その次に()抑止を考える。暴漢が家宅に侵入する気にならないようにいかにするか、消防で言えば火災予防である。間違えてはならないことは、消防隊があっても火事の発生を抑止しない。抑止するためには、消防隊を火災予防に運用しなければならない。消火態勢と火災予防とは別問題なのだ。
  また、()脅威が差し迫っていないときに、国家は、どんな考え方で防衛力を整備するかを決めなければならない。脅威が差し迫っていないにもかかわらず、過剰な防備は必要ない。 日本の防衛にかかわる諸計画も、このような順序で考えるのが常識だろう。その中身は 、


(
) 国防の基本方針で防衛の目標を定める。

() どのように守るかの「戦略」を立てる。
(
) 仮想敵国に対する「防衛戦争計画(Defense war plan)」と「有事動員計画」を作成するとともに、予期しない脅威の発生に対応する「不測事態対処計画(contingency plan)」を備えておく。
(
) 防衛戦争の危険が発生しないように、国際社会と協力する「関与の戦略」を立てる。
(
) 戦闘ドクトリンを研究開発し、それを演練する常備軍を編制する。
   そして、防衛戦争計画と動員計画の発動に備えた「平時体制」を整備する。
(
) 防衛インフラストラクチャーを強化するため、基地を戦略的に展開・整備する、ということになろう。 


  防衛庁が防衛計画の大綱を見直すというのなら、この順序で見直し、その論理を説明してもらいたいものである。 この中で、()()の中身は「機密」に属することで公表できないのは、世界の常識であることは論を待たない。しかし、存在することは明言しなければならない。そうでなければ、国民は防衛庁を信頼しない。
 以下、この順序で防衛計画の大綱(以下「大綱」と略する)の見直し考えたい。



国土を戦場に想定するな


現在の「国防の基本方針」は、昭和三二年(一九五七年)に作成された。当時の岸首相は米国にでかけて大統領アイクと会い、旧安保条約の問題点を検討する委員会の設置に合意したが、日米関係はまだまだ対等と言えるにはほど遠い時代だった。
  その中で日本は第一次防衛力整備計画を造って、自衛力を整えようとした。自衛力の計画的な整備に消極的な政治勢力が多い中で、論議を呼ばないことを主眼に急いで整備計画に必要な「国防の基本方針」を作成した。
  この基本方針の特色の第一は、日米安保条約の改定そのものが「方針の目標」だった。


  旧日米安保条約は、米軍が日本の基地を使用すること、日本を軍事的独立国にしないことが主眼目であった。それだけではない。米軍は日本を戦場と想定して作戦計画を作成していたのだ。日本を守る計画ではない。 だから国防の基本方針の核心的目標が「万一、侵略が行われるときは、これを排除」するとした。これは、わが国が戦場となることを言外に認めていることである。
  一九六〇年に日本は念願の安保条約改定に漕ぎつけ、第五条(共同防衛?)が付け加えられたが、その発動は「日本の施政の下にある領域が攻撃されたとき」と限定され、竹島や北方四島は含まれないことになってしまった。しかも、予想戦場に日本国土が含まれることは変更できなかった。それから約五〇年近く、日本は国防の基本方針を見直していない。
  かつて、日露戦争のときにウラジオストックから出撃したロシア巡洋艦隊が津軽海峡を通って東京側に出没し、非武装の輸送船六隻を撃沈した。ときの国民は朝野を上げて「日本艦隊は日本を防衛していない」との非難を海軍にぶつけたことを思い出したい。
  第二次世界大戦において沖縄が戦場になってしまったので、沖縄の人々心に大きい心の傷を残してしまった。それは今もって癒されていない。 


「国を守るということは、領土、領海、領空を戦場にしないこと」である。そのことを明示しない国防の基本方針は直ちに改正すべきである。 国土が武力攻撃され損害を受ければ、国防を全うしたとは評価されないのは世界の常識である。武力攻撃を撃退したからといって侵略を受けた事実は消えないし、受けた損害の傷跡は残る。例えば、暴漢に襲われ必死に抵抗したとしても暴行されれば、身を守ったことにならないのと同じである。暴行を受けないように戦うのが「防衛」なのだ。
「国防の基本方針」が生まれた当時の国内事情は歪んでいた。米軍に日本を防衛する任務がなく、日本に防衛力がないのだから「わが国をどのように守るか」などと議論する前に「とにかく防衛力を少しでも持たなければ」が防衛問題の焦点であった。当然、「防衛力整備が先にありき」で、国防の基本方針はそれの理論根拠を提供する役割のお飾りだったのだ。すなわち、基本方針と防衛力整備の間に存在すべき多くの思考がすっ飛んでいる。そしてこの基本方針と防衛力整備の歪な思考関係は現在も尾を引いている。この歪な関係を断ち切って、最初に述べた思考順序に正すことも重要な見直しの一つである。



国防線はどこか?

「日本を戦場として想定しない」という原則の上に立てば、防衛作戦を行う想定戦場は領土、領海、領空が造る主権線の外側ということになる。
 古代ローマの初代皇帝オクタビアヌスは、ライン河の線を国境と定めた。そしてエルベ河の線を「国防線」と定め、この二つの河の間を「緩衝地帯」と呼んだ。ローマ帝国に武力侵攻するおそれのある行動がこの緩衝地帯の中で行われれば、侵略とみなして撃破することにした。この考え方は今日、国境を接する大陸諸国では常識である。いずれの国も想定している国防線を明示することはしない。
  航空攻撃やミサイル攻撃は国土を破壊するが占領はしないから、陸軍が奇襲的に侵攻することを基準とし隣接国の国防線を想定し、その線と国境の間では、友好国であるかぎり防御陣地を構築したり、攻勢にでる態勢に軍を集中することはしない。それが友好の具体的な証なのだ。
  第一次世界大戦が終わったあと、フランスは国防線=国境線と考えて強力なマジノ線を設定して要塞を構築した。これではドイツに対する敵意が丸出しである。結局、国境線と国防線の間に作戦する空間がないため、ヒットラーに馬鹿にされ、後ろに回りこまれてマジノ線は役立たずだった。
  国防線=主権線では防衛は成り立たないことは誰が考えても判る。防衛行動を行う空間が得られない。マジノ要塞線以上の鉄壁の防壁を築くのであれば別だが。それでは敵意丸出しになる。
  海洋国家の国防線はどうか? 一六世紀末に英国海峡においてスペインの無敵艦隊を撃破し、英国を防衛したドレイク提督は、
「英国の国防線は英国の海岸でもなければ、海峡の真中にもない。それは大陸側の港の背中にある」
 と名言を残した。英国は、この方針を今日までも貫いている。さて、日本の国防線はどこなのか?
 まさか、戦理に反する「主権線=国防線」などと考えていないだろうが―――。もし、そうだとしたら、ただちに見直さなければならない。


「戦略」はどこにある?

 国防線が決まれば戦場が決まる。戦場が決まれば、どのように国防するかである。防衛作戦と言えども戦争であり、具体的には戦闘する。戦闘の目標は敵を撃破して勝利することである。それも「早期に」に撃破しなければ損害が増すばかり。国防の基本方針は「国境の外側で侵略者を早期に撃破する」ことが核心的な目標として明示されなければ意味がない。
 国防の基本方針を受けて考えることは、防衛の「戦略」である。それが防衛計画の大綱(以下、大綱と略称する)の中心になるはずである。


 海洋国家の戦略は、基本的にフロム・シー戦略によるヒット・エンド・ラン作戦である。日清・日露戦争はにおいて、大陸側の基地を陸上から攻撃して制圧し、敵艦隊を撃破したのは好例である。海洋国家が大陸奥深く兵を進めるのは世界の戦史の教訓に反する。
  ところが現在の大綱には、「戦略」という単語がどこにもない。驚いたことに、「大綱」を受けて計画すべき自衛隊の運用にも、防衛力整備計画にも、その他の防衛諸計画にも「戦略」という言葉が見当たらない。 これを要するに、日本はこれまで「戦略なき国家」でやってきているということだ。
 二〇〇一年春、小泉内閣が発足して自民党の中に「国家戦略研究本部」が設置されたと新聞が報じた。しかし、それ以来、「国家戦略()」が出来たという報道は一切ない。どうやらこの研究本部は休眠状態であるらしい。


 それを裏付けるように、二〇〇三年一一月末の朝日新聞によれば、首相に外交政策を助言する「対外関係タスクフォース」が「二一世紀日本外交の基本姿勢」という報告書を提出した。この報告書は、 「これまでの日本外交を長期的戦略のない行き当たりバッたりの対症療法だ」と断じて、
「これからは国益を重視した長期的なヴィジョンが必要だ」
 と述べている。この外交の文字を防衛の文字に変えれば、そのまま当てはまり、防衛戦略がないことになる。 


  策(戦略)は、術(戦術)がなければ机上の空論になる。術は得意技(戦闘ドクトリン)がなければ使えない。ところが防衛庁には、得意技を開発する研究所がない。これでは、技なければ術の使いようがない。戦えば「百戦、百敗」になりかねない。それでも平気な防衛庁ではどうしようもない。
「戦略」は戦う策である以上、仮想敵国がある。世界中の常識に従えば、同盟国は仮想敵国にならない。「敵の敵は味方」である
が、「味方の味方は、味方である。同盟国の同盟国は仮想敵国にならない。
  戦略は国家の戦略的地勢に支配される。日本は海洋国家であることから逃げられない。すなわち、海洋国家の戦略が必要である。


日本を取り巻く海水は世界と一衣帯水だ。だから日本周辺で仮想敵国の対象になるのは、自ずから決まる。
 仮想敵国を設定することに躊躇する政治家や官僚がいるが、現実には、仮想敵国の政治的意図を想定し、その仮想敵国の軍隊―――「対抗部隊」と呼んでいる―――を相手に陸海空自衛隊は戦術の教育・訓練を行っている。どんなスポーツでも練習相手なしには技を磨けないのは常識である。だから、仮想敵国を設けていることを隠すような態度は国民を騙そうとする態度に他ならない。
 さらに、戦略的地勢から判断して日本に軍事力を行使できるような国が、日本に武力恫喝や脅威をほのめかせば、それは明らかに「脅威国」である。防衛計画の大綱において、その国名を堂々とうたってもおかしくない。国民は安心し防衛庁を信頼するだろう。
 昨年、韓国は「北朝鮮を脅威国から外した」と報ぜられている。それは政治面での話。韓国軍の防衛戦争計画では北朝鮮が敵国であることには変わりはない。日本の防衛戦争計画も北朝鮮を敵国として扱って当然である。 


  さて、日本は世界の常識に従うなら大綱は、海洋国家の戦略を採用することを明示しなければならない。それが防衛力運用の準拠となる。
  ときどき「脅威に直接対応するのではなく、単に軍事力の空白地帯にならない」ことが日本の戦略だと主張する人たちがいる。それは「軍事力の存在(forces in being)」自体が日本周辺の国々を牽制する効果を持っていることが条件で成り立つ戦略だ。牽制意志がなければ戦略ではない。
 一七世紀に英国海軍は、兵力劣勢をカバーするのに「牽制艦隊(Fleet in being)」と言う戦略を使ったことがある。これは「持久戦戦略」の一法で牽制を受けている相手が油断すれば、攻勢に打って出て相手を撃破する「決戦戦略」を持っているから成り立ったのだ。攻撃する決戦戦略を隠し持っていないで、ただ自衛力を保有しているだけでは持久戦戦略も成り立たない。それでは抑止効果はゼロである。


「関与の戦略」がない

防衛庁は「國際平和維持活動」や国際的な災害救助、テロ対策特別措置などを、自衛隊法を改正して自衛隊の主任務の一つに加えたいという。それが大綱見直しの目玉のようだ。
 それはいい。しかし、これらの行動は直接的な防衛作戦ではない。この種の作戦の目的は「国益」の防衛である。それは対外関係タスクフォースが提案する「外交安全保障戦略」と密接に調整した整合性のある「関与の軍事戦略」に基づくものでなければならない。 


 そのことは、自衛隊の使命が「主権」と「国益」の防衛に拡がるわけである。その認識を国民に正しく説明しなければならない。国益の防衛に自衛隊を運用するになら、「國際政治では、外交と軍事は車の両輪」という世界の常識を受け入れることが必要で、それに必要な外務省と防衛庁の政策調整システムが必要になるだろう。このことは、政治機構の小手先の問題ではなく、先の第二
次世界大戦の教訓を学ぶことなのだ。外務省が陸海軍省と調整することなく、中国に対して二一ヶ条の要求を行ったりした悪い歴史の例がある。 


「国益の防衛のために軍事力を使用するのは、つとめて本国が遠くやれ!」という原則がある。だから海外派兵に必要な編成・装備を自衛隊に与えることが必要であり、その覚悟を防衛計画の大綱で明示することだ。
  防衛戦争計画が欠落している  すでに述べたように、自衛隊の運用は明確な防衛作戦の戦略計画に基づいてなされることが必要である。その戦略計画の骨幹は、不測事態対処計画(陸海空自衛隊が毎年作成している年度防衛計画)もさることながら「防衛戦争計画」と「有事動員計画」である。
 この二つの計画を作成して金庫の奥深くしまっておくことは、制服自衛官の使命である。もちろん、戦争の相手に取り上げるのは複数の「仮想敵国」に他ならない。 現実には、北朝鮮を脅威国として扱うべきだから、北朝鮮を相手としていかに防衛戦争に勝利するかを計画しておくことは当然である。
 この際、第二次世界大戦の日本軍部の失敗から教訓を得れば、単に対象国を個別に相手する戦争計画だけではなく、複数の対象国が同盟を組んで脅威を加えてくるケースについても防衛戦争の計画を造っておくことだ。
 このような防衛戦争計画がなければ、「有事立法」の根拠がなくなる。また、いざ有事になったとき、国家として有事体制をとるに必要な骨幹計画がないことになる。それがなければ有事に急速に造成しなければならない防衛力の量的目安を得られないばかりか、そのときにどんな体制で、どういうことをなすべきかの準拠もない。このような計画は、世界の常識に従えば、「有事動員」計画である。


 防衛戦争計画を作成しておくことは総理大臣の使命である。万一に備えることを怠けている政治家は、政治家の資格がないといえよう。
 緊張が高まり、対立となれば、外交で話し合いの解決に努力する一方、動員を発動として防衛戦争を準備するのは、政治家の判断である。どのくらいに前もって動員を発動しなければならないかは制服自衛官の進言が必要であろう。歴史に従えば、少なくとも半年から一年以上である。そのくらいの見通しを持てないものは総理になる資格はない。
  今日、自衛隊は不測事態対処の作戦計画を陸海空自衛隊が個別に作成しているようだ。統合幕僚会議があるが、それはあくまで「会議」であって、作戦司令部ではない。だから本当の意味での統合作戦計画はないに等しい。


 その証拠が陸海自衛隊の想定している作戦である。海上自衛隊は米第7艦隊と行動をともにして千海里のシー・レーンの防衛を主軸に作戦するという。航空自衛隊は防空識別圏の中で主として防空戦闘を行うという。陸上自衛隊は、わが国土に脅威国が着上陸侵攻してきたときに戦うことを主軸にしている。
  陸海空自衛隊の想定している作戦はまったく整合性がない。何故なんだ? 明確な戦略がないからである。通称、年度防衛計画と呼んでいる不測事態対処計画だけで自衛隊が有事作戦計画を作成していると防衛庁が胸を張るなら、世界の軍事専門家は軽蔑してあざ笑うことは間違いない。不測事態はあり得ないし、あってはならないからだ。


侵略を抑止しない自衛隊

防衛関係者は退職者も含めて、自衛隊は侵略を未然に防止しているのだと言う。「どこが?」である。
  自衛隊は確かに不測事態に対処する年度防衛計画という作戦計画を作成している。しかし、「不測事態」というのは、政治家、防衛官僚、制服自衛官を含めて、日本をとりまく国際情勢の変化を見抜けなかったというケースを意味している。そのときは、彼らは「直接侵略事態が発生した場合」を予測できなかったことで、役立たずの人間集団であることなのだから、即刻「首を斬られる」べき人たちである。
 ポーランドと同盟を組んでおきながら、ヒットラーの侵攻を防げなかったチェンバレン首相は首になって、チャーチルが政権を担った。ハワイ奇襲を受けた米軍人たちは軍事裁判を受けて有罪になった。 


「不測」で奇襲を受ければ責任を問われるのは当然である。だから不測事態対処計画を発動するのは、部下が尻拭いをする計画であるとも言える。
 防衛作戦の発動は「侵略を受けるおそれがあるとき」に発動するのが原則で、「侵略を受けて」国土が破壊され、たとえ少しでも国民の生命・財産が奪われてから発動するものではない。それは国家の独立(主権)が侵され、国家の尊厳を踏みにじられたことである。そんな間抜けたことになれば為政者、防衛担当者は処罰されるべきである。すなわち「侵略が発生した場合」では遅いのだ。
 ところが、この点の政府の態度が明確でない。大綱は「極力早期に排除することとする」としている。冗談じゃない! この考えには、実態的な侵略を受けることを前提にしている。それは国防の失敗なのだ。拳銃で撃たれてから射ち返すガンマンが勝つケースはほとんどない。場合によっては首を切り捨てられてから刀を抜くマンガの話になる。 


「寸土も侵略させない。一人の国民の生命も失わない」 


 という決意と対策を大綱で明らかにしてもらいたい。
 現行の大綱が「侵略につながるおそれがある軍事力をもってする不法行為が発生した場合 (不測事態ではない)には、これに即応して行動し早期に事態を収拾する」というが、その意味するところは、脅威に直接対応することにほかならない。それは現在の基盤的防衛力の整備構想の考え方と完全に矛盾している。 しかも相手は「戦い」を仕掛けてくると判断して対処するわけだから、事態を
早期に収拾するには、「撃破して勝利」する以外に方法はない。これも現在の基盤的防衛力整備構想の考え方と矛盾している。現在の大綱では「戦う自衛隊」を整備するとはしていないからだ。
 もっと奇妙なのは侵略を受ければ排除するだけである。暴漢から刺されたナイフを抜くだけだ。バイ菌に侵入された白血球のように体内に入ったバイ菌と戦うだけである。バイ菌の侵入を予防できないし、暴漢が襲ってくるのも予防できない。


  自衛隊を侵略の予防に使わない限り「侵略を抑止」できるわけがない。現在の大綱では自衛隊を侵略の予防に使うことを計画していない。
  たとえば、北朝鮮の核ミサイルが発射されて、その方向が標定されて日本に弾着することが判定されてからこれを撃墜することは技術的に不可能である。なぜなら、光学誤差と機械誤差がミサイルの秒速七キロ/秒に追いついて修正できないからだ。だから発射を抑止するためには、発射前に撃破する以外に方法はない。
 ところが大綱は、このような自衛隊の運用を考えていない。すなわち、自衛隊は抑止効果ゼロの防衛力なのだ。本当に抑止効果がある防衛力になるように大綱を是非とも見直してもらいたいものである。


 わが国を脅威する国の軍事力を撃破する能力を持ち、わが国に対して侵略しようとすれば、そのスタートにおいて撃破するぞと自衛隊の威力を相手に顕示できなければ抑止効果がないことは幼稚園の子供でも理解できるだろう。
 現在の大綱の姿勢では抑止効果はまったくない。多少なりとも軍事を勉強すれば、自衛隊は抑止能力のない自衛力であることを見破るのに難しさはゼロである。


外国に駐留しているような自衛隊

 今日、陸海空の自衛隊の基地、駐屯地に行けば、バリケードで囲まれている。これは外国の軍隊が他国に駐留しているのと同じ格好である。
  陸上自衛隊の入口(営門)には、警衛隊が小銃を装備して番をしている。かつて日本軍が中国や満州に駐屯していた構えと全く同じだ。こんな構えでいながら自衛隊が国民に愛されることを期待するのは、お門違いである。
 国境を接している国が国境に陣地を構築して防御態勢をとりながら、隣国に仲良くしましょうといっているのと同じである。仲良くなるわけはない。心底では、国民を疑っている証拠である。しかも、自衛隊の作戦計画では、その部隊が防衛出動してしまうと、駐屯地は閉鎖されたり、残っても残務整理の管理部隊だけというのでは、地方の人々も他国の軍隊に土地を提供しているだけと感じるのが当然である。これは自衛隊が外国に駐留している体制をとっている証拠である。これは 明らかに米軍が日本を戦場の一部として作戦計画を作成し、日本の自衛隊は米軍がくるまで日本の国土を戦場として戦おうと考えた残りかすである。
 古来、名将は、軍隊を長く戦闘即応の緊張下に置かない。戦闘即応の態勢に長くおくことは、訓練を効率的かつ段階的に実施できないし、なによりも隊員の精神的エネルギーを消耗してしまうからである。
 あの冷戦時代にあっても欧米の軍隊の基地や駐屯地は鉄柵で囲まれることはなく、民間の人々が自由に出入りして隊員たちと交流していた。鉄柵があり、警備されているのは、武器の集積所と弾薬庫だけである。
 戦闘即応態勢を取っている部隊は一部であって、その他の部隊は教育・訓練に最適の態勢をとっている。当然ながら戦闘即応の部隊は戦時編成をとっているが、訓練最適の態勢の部隊は「平時編制」である。英国などは、有事なれば平時編成の部隊から、半分程度の「遠征部隊」を編成して出動させる。残りの部隊は新たに動員されてくる兵士の訓練を行い。常に戦闘力の維持・培養、供
給を行う。消えることがない基地である以上、地元の人たちは『おらが部隊』と愛着を持つ。これが本当の国民とともにある自衛隊や軍隊の姿なのだ。防衛計画の大綱の見直しでは、防衛庁と国民が本当に密着するために「平時体制」への転換を打ち上げて欲しいものである。。 
 防衛戦争が差し迫っていないとき、常備軍の大きさは「戦闘ドクトリン」を駆使して一つの戦闘を実行できる戦術単位で十分である。有事には戦略の要求に応じて、その単位を増やせばよいのだ。



非常識な防衛力整備構想

現行の防衛計画の大綱では「基盤的防衛力整備構想」に基づいて自衛隊の戦力を整備するという。その基盤的防衛力の整備構想とは、
「わが国に対する軍事的脅威に直接対抗するよりも、自らが力の空白となってわが国の周辺地域における不安定要因にならないよう、独立国として必要最小限度の基盤的な防衛力を保有する」 というのである。世界の国々は、


(
) 戦闘ドクトリンに基づいて整備―――――基本型
(
) 脅威に対抗するように整備―――――――脅威対抗型
(
) 独立国家の体裁を整えるように整備―――装飾型
 


の三通りの考え方のいずれかで防衛力を整備している。


  国家の国力、特に人口が少なく、経済・産業力が弱い国家は、装飾型の軍事力しか保持できない。その代わり軍事大国の傘下で保護を受ける。当然、安全保障問題については、その大国の属国になる。國際政治の領域では半人前の国家で「独立と自由、国家の尊厳」はない。
 残念ながら、日本は戦国時代以来、大名も国家も常に「脅威対抗型」の考え方で軍事力を整備してきた。第二次世界大戦前の日本陸・海軍も脅威対抗型で軍事力を建設した。明治から昭和まで日本の軍事力の戦い方は、欧米の軍事先進国の戦闘ドクトリンを学ぶだけに終始したのだ。だから、日本には、戦闘ドクトリンを研究開発し、それに向かって軍事力を整備するという思想が根付
かなかった。


 冷戦時代に次第に増加するソ連軍の戦力に対抗して、制服自衛官は自衛隊の戦力の強化を要求する。しかし、それでは政権は野党の質問に答えられない。それどころか政権を支える与党の中にも防衛力増強に反対する党員がいる。ついに防衛官僚は、装飾型の防衛力整備案を言い出した。彼らは、軍事専門家ではないので基本型(戦闘ドクトリン型)の防衛力整備のあり方を知らない。
 こうして現在の防衛力整備の基本構想が誕生した。しかもこの整備構想には裏ある。この構想に対して万一、脅威が発生したらどうするのかという疑問に対して防衛庁は、
『脅威が発生したときに、それに対応できる戦力を増強(動員?)して対処するが、今は考えない』としている。すなわち、現在の自衛隊は、


* 脅威に対抗しない。
* 戦わない自衛隊(防衛戦争を想定しない)

ということになっている。


 だから、自衛隊の戦力整備には、戦闘損耗見積も、戦闘消耗の見積りもない。有事用備蓄弾薬もない。有事用予備部品もない。戦闘機パイロットの予備もない。戦闘を全く想定していないのだ。自衛隊は外国に駐留しているような体制をとっているももの「平時だけ」の存在である。


「自衛隊は戦力なき軍隊だ」 


 とはよく言ったものだ。これで「侵略を未然に防止(国防の基本方針)」する抑止力があるとは片腹痛い。
 防衛計画の大綱の組み立て方は、基本方針(目標)を受けて、戦略構想(戦場)――戦争計画――動員計画――防衛体制――防衛力の整備と考えを進めていくのが筋道だ。しかし、現行の大綱は「戦略なし、戦争計画なし、動員計画なし、防衛体制なし」でいきなり、防衛力の整備を考える。それから防衛の態勢を考えるのだから思考が逆転、混乱している。このようなお粗末な結果を招いている基盤的防衛力整備構想ほど自衛隊をスポイルしている考え方はない。大綱の見直しには、この考え方に別れを告げなければならない。


利己主義の同盟は失敗する

第一次世界大戦において日本は同盟国である英国から欧州派兵を求められた。日本は国益がないからという理由で派兵の要請を断った。次に中東派兵の要請を受けたが同じ理由で断った。そして、中部太平洋のドイツ領を占領したのだ。
 この拒否は「海外派兵は本国から遠く」という原則から外れている。連合諸国は日本の利己主義に驚き日本を嫌うようになった。同盟を組む以上、利己主義を棄てなければならない。
 かつて秀吉が朝鮮に侵攻したとき、李氏朝鮮王朝は宗主国である明国に救援を要請した。明国のとった行動は、


* 自らを守らないものは助けない
* 自国の国益を優先する
* 救援による明国の利益と損害を天秤にかける
 


であった。それだけではない。李氏朝鮮が裏で日本と取引しているのではないかと疑ったのだ。
 同盟を実効あるものにするためには、「汗と涙と血を流せ!」である。その決意を大綱に明示しなければ、ことあるごとに同盟が揺らぐ。  


「自衛隊は盾、米軍は槍」は大間違い

 日米安保条約を政府は、現実主義の立場で解釈し、それを国民に説明しなければならない。第一に、米国に必要なのは日本に軍事基地を保有することである。旧安保条約は、このことと、日本を壜の中に閉じ込めて蓋をしておくのが条約の趣旨であったのだ。日本の要求によって現在の安保条約は、米側がしぶしぶ第五条(日本の防衛)を入れたが、その中身は、

「日本の施政権の及んでいるところ外国が侵略したら米軍も対処する」 


というのであって、竹島や北方四島には適用されないし、日本を助けるときは、日本が戦場になったときであって、日本が日本の主権領域の前方で戦うときには、どこにも米軍が共同することにはなっていない。
 日本が防衛作戦を行うときには、米軍は槍の役 割をしないのだ。米軍が戦うときは、日本が戦場になって米軍の基地が危なくなるときであることを言外に明示しているのだ。 端的に言えば、
「東京が爆撃されても米軍は戦わないが、横須賀が狙われたら戦闘する」
 という意味なのだ。 世界中、どんな同盟を探しても自国は盾、米軍が槍などという属国主義の同盟はない。 


 台湾がかつて米・中華民国相互防衛援助条約を結んだが、その有効領域に米国は、金門・馬祖・大朕島を入れなかった。案の定、中共軍はこの三つの島に侵攻するため大規模な航空攻撃をしかけた。米軍は一機も手伝わない。台湾空軍が弧軍奮闘して防衛に成功した。同盟条約とはこんなものだ。それどころか、米国はこの防衛条約で蒋介石の本土反攻の手を封じてしまったのだ。
 日米安保条約には、どこにも自衛隊が盾、米軍は槍とは書いていない。日本が北朝鮮に拉致された日本人などが救援を求めたとき、期限を切った話し合いがつかなければ、奪回する方法しかない。奪回しないような日本政府の政治家は「国賊」である。そのとき、日米安保条約は適用外でまったく機能しない。 


 同盟のあり方を考えるときに、ドゴール元フランス大統領の言葉を噛みしめたい。それは、
「同盟国は、巧みに利用すれば頼もしい友人であるが、同時にフランスの自由と独立を制約しようとする悪意ある友人でもある」
 日本は、米国の核戦力を利用するとしても、在来戦力では少数精鋭の機能的に完結した防衛力を整備し、米国と対等な立場で防衛同盟の体制を再構築すべきである。


終わりに

防衛計画の大綱を見直すにあたっては、屈辱的な国防の基本方針を改正し、防衛力を意味のないものにしている基盤的防衛力整備構想を投げ捨てることである。そして「海洋国家としての防衛戦略」を確立せよ、ともう一度、繰返して強調したい。

  前世紀に、第二次世界大戦に勝利して日本を占領した米国は、日本がふたたび西太平洋における海洋国家として強国にならないように「骨抜き政策」を徹底した。その最たるものは、日本国民の伝統的に行動基準である「武士道」の否定であった。武士道は、決して野盗の精神ではない。その真髄は「勇気と廉恥」である。


 国家にとって「強さ」があればこそ、自国の主張を担保できるのだ。そして強い国ほど優しい国になれる。だから、薫り高い武士道を行動基準として「強いことは、良いことだ」と胸を張って防衛政策を見直してもらいたい。



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