第一次世界大戦では、枢軸国側も連合国側も両陣営が使用した「化学兵器」であったが、人間を必要以上に苦しめる残酷な兵器であるという観点から1925年のジュネーブ議定書において規制対象となった。そして第二次世界大戦と時には実戦に投入されることはなかったといわれている。
しかしジュネーブ議定書には、化学兵器の使用について「研究行為については使用を禁止しない。」という法的な抜け道が存在した。世界各国が密かに化学兵器の開発を継続していたのはこのためであり、ジュネーブ議定書を批准しない我が国についてもそうした国々の一つであった。そして我が国で「化学戦」分野で役割を担った組織が「516部隊(関東軍化学部)」であった。731部隊との違いは、731部隊は毒素の強い細菌を利用した生物兵器の研究を重視していた。(バイオ兵器)
毒ガスなどの化学兵器(ケミカル兵器)は516部隊の担当であったといわれる。ただ731部隊と516部隊は、共同研究を行うこともあったとされているため、両隊ともとても近しい関係であったことは間違いないであろう。さらに組織の存在が極秘扱いされた点も731部隊との共通点である。
516部隊は、1939年に関東軍技術部化学兵器班を再編する形で誕生した組織である。本部は満州のチチハル。兵器研究と毒ガスの有効的な使用法の確立などを行っていた。研究の方法論は、確かに現代人の感覚からみれば非人道的な行為ではあるものの、方法はどうであれ、研究そのものは合法であった。しかし516部隊が開発した化学兵器は実際に使用されたことがわかったのである。
戦後の研究結果によると、日中戦争時に山東省を中心に毒ガスが使われたことが判明したのである。使用回数も1度や2度ではなく、終戦までに中国大陸全土で約1000回を超えていたといわれる。ただやはり国際条約違反なので大きな規模で使用されることはなく、部隊の単位での小規模使用がせいぜいの状態であった。ガスの種類も非殺傷の催涙系がほとんどであったといわれている。
習志野学校の真実
陸軍習志野学校において、高度な化学的な知識を身に着けて、研究員を各隊へ供給していた。
1932年 第一次世界大戦で毒ガスの実用化の事実を知った旧日本陸軍は、化学戦に備えた研究機関をたちあげるに至った。(習志野学校の設立)※場所が千葉県習志野市
当初は防護策の研究のみを担う小規模な組織であったが、満州事変以後の軍部の権限拡大に伴い、人員は年々増加していき、最終的には約1360人を擁する毒ガス研究の中心地となるのである。
学校では、毒ガス関連の部隊に配属予定の将兵に対する基礎教育、つまりは毒ガス基礎知識と取り扱い方法、防護法の教育を行い、日米開戦後は実用訓練にまで施すようになったという。そして
卒業生が最も多く配属された部隊が「731部隊」と「516部隊」であった。さらに「瓦斯兵」として通常部隊へ派遣された兵も多かったといわれている。さらにそれ以外の配属先としては、軍の毒ガス工場があげられる。
日本軍が毒ガスを生産していたことは、今では広く知られており、かつて工場のあった広島県の大久野島は、跡地を一部だけ一般公開している。工場配属となった兵士は、島でガスの量産に携わり、またはガス砲弾を製造していた福岡県小倉南区の曽根製造所での製造作業に当たった。
1943年 海軍も神奈川の相模工廠でガス兵器を量産したとされている。まさに毒ガス研究は関東軍の独断などではなく、本土でも組織的に進められた日本軍の正規の方針であったのである。
516部隊を含めたこれらの組織と施設は、敗戦とともに廃止となったが、同時に現代まで続く問題をも残してしまった。
終戦までに生産された数万発といわれる毒ガスの行方である。
ほとんどは解散の時に処分されたといわれるが、中には海や地中に廃棄されたものも少なくはない。
2002年に習志野などの施設跡で土壌汚染が確認されている。
また共産中国でもこの問題は例外ではなく、2003年8月に516部隊がいたチチハルの建築現場にて、毒ガス入りのドラム缶を発見した作業員を含む44人の民間人が中毒症状に襲われ、うち一人が死亡する事件がおきている。大戦が残した負の遺産は、現在でも各地で息を潜めているようである。
※共産中国国内での旧日本軍の残留兵器については、当時の日本軍が処理をしなかったというよりも、兵器を接収した国民党軍がしっかり処理しなかった、とも考えられる。
旧日本軍の毒ガス砲弾を発見 愛知県田原市
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