2020年5月10日日曜日

満州第502部隊 ~旧日本陸軍幻の特殊部隊~

日本初の特殊部隊の卵

1941年(昭和16年)11月に対ソ連開戦を危惧する旧日本陸軍は、関東軍に対して敵地工作を主任務とする新部隊編成を指示していた。この指示に従って新設されたのが、満州第502部隊である。

 数千人単位で編成される通常の連隊に対して、精鋭による遊撃戦を想定した第502部隊の隊員数は、約300人のみ。隊員は他の部隊から引き抜いたベテランだけで構成されていた。部隊の本部がおかれたのは、
満州の吉林である。対ソ連開戦時には、敵地での破壊工作を行う、ことになり、橋梁や後方陣地の爆破を実現するべく、隊員への訓練は苛烈を極めていたといわれている。

 夜間、寒中の行軍訓練から軽装備での山岳踏破、時には30km以上の装備を背負って1日約80kmの行軍を強いることもあったといわれる。中でも爆発物の取り扱いや目標施設の破壊法などは徹底的に叩き込まれる。
橋を模した施設と模擬弾を使用した実戦演習もよく行われていた。
 その一方でユニークな戦術訓練も取り入れていた。それが、気球を使って敵陣に侵入する訓練である。航空機よりも静かであり、隠密行動に適するとして研究が始められ、1944年5月には隊員に搭乗飛行させる「
き号演習」が実施されている。しかし気球は、気流の影響を受けやすく,重りや排気弁を操作しても思い通りに操縦するのは極めて困難であった。演習においても隊員の1人が危うく遭難しかけており、結局1945年8月
のソビエト連邦侵攻においても気球が使われることはなかった。

発揮できなかった実力

 1944年3月に第502部隊に転機が訪れることになった。部隊の拡充再編が決まり、遊撃戦の専門家である鶴田国衛少佐が着任したのである。鶴田少佐は、陸軍中野学校の元教育主任であり、日中戦争初期の経験をベースに「遊撃戦経典」と呼ばれる遊撃戦の基礎を構築
した実績を持つ。
 1944年4月の会議では、鶴田少佐を含む関東軍の幕僚の多くが、日ソ戦は、ソビエト連邦の先制先制で始まると予想して、橋や線路の破壊で進軍を遅らせ、主力部隊が準備を整えるための時間を稼ぐ部隊が必要であるとの結論が下された。

 対ソ連戦にむけて「機動第一旅団」が創設されると第502部隊も編入が決定する。総兵力は旅団全体で約6850人を数え、初期の300人体制と比べて約20倍以上の規模となった。しかしやはり対ソビエト連邦部隊ということで、対米対英を中心とする戦闘に出撃する機会は巡ってこなかった。
 1944年6月に第502部隊へ釜山港からの出撃命令が下ったことはあったが、港への到着後に中止となって吉林へ帰還している。中止の理由は未だに不明であるが、アメリカ軍が攻撃中のマリアナ諸島への援軍として派遣されるところを、関東軍が虎の子部隊の引き抜きを嫌って猛反対し、やむなく中止したとの見方が有力である。

 1945年になるとナチスドイツが敗色濃厚になって満州沿い国境のソ連軍が日々増員され続け、関東軍では、ソ連参戦の時期に関する議論が白熱していた。ソビエト連邦が1945年4月に日ソ不可侵条約を破棄したため、8月中にも戦闘が始まるとする者もいたといわれるが、大半は
部隊の集中と補給にかかる時間に鑑み、ソ連参戦は9月~11月の間と結論づけられてしまう。
 ソ連軍の8月の満州侵攻に対して、第502部隊を含む「機動第一旅団」は有効な手段を講じることができなかった。ソ連による攻撃が奇襲攻撃であったことで、特殊作戦をしかける余裕がなく、通常部隊としての戦闘を余儀なくされ、8月12日には小規模な橋梁爆破が行われたが、敵の侵攻を遅らせることは敵わなかった。夜間強襲で対抗したが、圧倒的な物量のソ連軍には太刀打ちできず、多数の戦死者を出しつつ、9月3日に本土からの武装解除命令に従い投降する。旧陸軍初の特殊部隊となるはずであった部隊は、訓練の成果を十分に発揮することもなく、
その歴史を終えたのである。

動画でみる満州第502部隊

今の陸上自衛隊の特殊作戦群のご先祖さまにあたるわけですね。特殊部隊構想は既に旧軍のころからあったということです。しかしソ連軍の侵攻が速すぎたというより、情報部隊とリンクしながら、戦略を実行し、ソ連軍の満州侵攻を阻止してほしかったな、と思ってしまうのは私だけでしょうか?



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