戦争の行方を左右する諜報活動
現代の戦争を遂行する上で欠かせない行動の一つが諜報活動、いわゆるスパイ行為であろう。敵地から様々な手段で情報を盗み、敵国内部にスパイを送り込んで、内部工作により国力を疲弊させる。そうすれば、自国は入手した情報で戦闘を有利に進めることができるし、敵国は国内の混乱で戦争どころではなくなるというわけである。こうした諜報活動を我が国で担ったのが、陸軍省や外務省の「特務機関」と呼ばれる組織である。
1885年に朝鮮半島での影響力を強化したい清国や、アジア進出を目指すロシア帝国との開戦を危惧した我が国は、陸軍の萩野末吉をウラジオストクへ駐在官として派遣し、大陸やシベリア方面の情報を収集させた。これが日本陸軍による諜報活動の始まりであるといわれている。
日清戦争後には、陸軍の参謀本部が多数の情報将校(情報収集&謀略活動を任務とする役職)を満蒙地域とロシア国内へ派遣する。日露戦争勃発後にロシア国内で反政府勢力へ支援を行い、国力を衰退させた明石元次郎大佐の活躍は有名である。こうした諜報活動は、日露戦争後も継続され、太平洋戦争前後には専門の特務機関が活動を任されていた。その一つが満州(中国東北部)の都市ハルビンに設置された「ハルビン特務機関」である。
満州の対ソ謀略組織
日本海軍がアメリカ海軍を仮想敵国とした一方で、日本陸軍は終始一貫してロシアと革命後のソビエト連邦を警戒していた。日韓併合と満州国建国により国境は事実上地続きとなり、その脅威は日露戦争時とは比較にならないほど高まっていた。従って最も長く国境を接する満州は必然的に最重要地域となり、陸軍が最も諜報に力点をおくことになる。
諜報活動が活発化したのは、「シベリア出兵」直前の1918年初頭であった。陸軍ではシベリアでの正面戦闘以外の活動、すなわち「情報収集」や「敵地への宣伝工作」「日本に味方する勢力とのコンタクト及び育成支援」などの諜報業務を戦闘地域でどのように行うかが課題となっていた。
これらの問題を解決するために、参謀本部は司令官指揮下に専用の工作組織をおき、現地活動を可能にしようとした。この時に設立された特務機関の一つが「ハルビン特務機関」である。シベリア出兵が失敗に終わると、日ソの国交樹立でソ連国内の特務機関が閉鎖していく。一方ハルビンをはじめとする満州方面の特務機関は引き続き情報収集を続けた。
昭和となって大陸への日本軍進出が活発化すると、各機関は1940年4月に関東軍直属の「関東軍情報部」へと改変され、ハルビン、チチハル、奉天、アパカといった各地の特務機関は、その支部として組み込まれた。こうして巨大した諜報網は満州全域に広がり、最盛期には戦闘員が4000人にを越えたといわれている。
諜報活動と外国人部隊の設立
特務機関内部には、対ロシア人工作専門の「白系露人事務局」がおかれ、協力者の増加を狙った宣伝工作や機密情報の入手を行うと同時に手に入れた文書は「文書諜報班」が独自に分析と翻訳を実行する。これらは1936年11月に制定された「哈爾賓機関特別諜報」に基づく活動でソ連共産党から逃れてきた亡命ロシア人の協力を得つつ、ソ連総領事館の現役電信員もひきこみ、かなりの情報を仕入れていたといわれる。
しかしソ連も特務機関の動きは察知していたようであり、偽情報(ディスインフォメーション)を掴まされることも多かったといわれている。さらには入手した情報も、諜報戦を軽視する関東軍上層部の理解がたりないせいで、作戦に活かされることは少なかった。
その一方で成功をおさめた活動が存在していた。外国人部隊の設立である。
満州には、革命後のソ連から亡命してきた白系ロシア人が多数存在した。そうした反ソ派の人員を中心に1937年に設立されたのが、約250人のロシア人兵士で構成された「浅野部隊」である。1937年には下部組織の牡丹江機関が「横道河子隊」を、1944年にもハイラル北方の警備を担当する「コサック警察隊」を編成する。最大150人と小規模ではあったが、満州国軍の正規部隊として、1945年まで配備されたのである。
さらにロシア人だけではなく、モンゴル人による部隊も編成されていた。第868部隊、通称「磯野部隊」といわれる。1941年9月に約800人のモンゴル人を集めて編成された部隊であり、目的はモンゴル方面の防衛と敵地での謀略活動である。
当時のモンゴルは、ソ連の影響下にあったため日ソ開戦時の活躍を期待されていた。しかし対ソ戦の可能性は日ソ不可侵条約締結によって事実上なくなり、2年以上外蒙古で飼い殺し状態となっていた。1943年に移動が命じられたが、行先は中国東北部の興安であり、部隊名は「第53部隊」に変更となる。翌年1944年には関東軍へ転属され、「第2遊撃隊」として満州西方の防衛につかされた。ただ状況に振り回されはしても我が国を裏切ることはなく、1945年8月のソ連侵攻においても松浦友好少佐に指揮され、果敢に戦っている。
特務機関が考案した中で最大規模の作戦が、「K号工作」である。日ソが開戦すれば偽のソ連軍警備艇を使用し、工作員をソ連兵に変装させて、アムール川の鉄橋や川沿いの施設を爆破するという壮大な作戦計画である。この作戦計画は中止となったが、実行されていればソ連との戦いの推移は変わっていたかもしれない。
ハルビン機関の終焉
ハルビン特務機関は、数ある特務機関の中でも活動期間の長い組織である。そのため戦史で名を残した名将にはこの機関の出身者が少なくない。東条英機の後任として総理大臣となった小磯国昭、満州事変の立役者の一人である土肥原賢二、ポツダム宣言受諾後に千島列島を攻撃したソ連軍から千島を防衛した樋口季一郎など全員ハルビン特務機関の構成員kじゃ機関長を経験していた。
1945年8月9日のソ連軍参戦とその後の満州制圧でその歴史に幕を閉じることとなった。モンゴル人部隊はソ連軍の数に敗れ、戦線離脱を余儀なくされ、白系ロシア人部隊も再結集したものの、関東軍にソ連軍と間違えられて、誤爆により全滅するという結末をたどっている。
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