2020年5月11日月曜日

ハルビン特務機関 ~ソビエト連邦の脅威を探ったシベリアの諜報機関~

戦争の行方を左右する諜報活動

現代の戦争を遂行する上で欠かせない行動の一つが諜報活動、いわゆるスパイ行為であろう。敵地から様々な手段で情報を盗み、敵国内部にスパイを送り込んで、内部工作により国力を疲弊させる。そうすれば、自国は入手した情報で戦闘を有利に進めることができるし、敵国は国内の混乱で戦争どころではなくなるというわけである。こうした諜報活動を我が国で担ったのが、陸軍省や外務省の「特務機関」と呼ばれる組織である。

1885年に朝鮮半島での影響力を強化したい清国や、アジア進出を目指すロシア帝国との開戦を危惧した我が国は、陸軍の萩野末吉をウラジオストクへ駐在官として派遣し、大陸やシベリア方面の情報を収集させた。これが日本陸軍による諜報活動の始まりであるといわれている。

日清戦争後には、陸軍の参謀本部が多数の情報将校(情報収集&謀略活動を任務とする役職)を満蒙地域とロシア国内へ派遣する。日露戦争勃発後にロシア国内で反政府勢力へ支援を行い、国力を衰退させた明石元次郎大佐の活躍は有名である。こうした諜報活動は、日露戦争後も継続され、太平洋戦争前後には専門の特務機関が活動を任されていた。その一つが満州(中国東北部)の都市ハルビンに設置された「ハルビン特務機関」である。

満州の対ソ謀略組織

日本海軍がアメリカ海軍を仮想敵国とした一方で、日本陸軍は終始一貫してロシアと革命後のソビエト連邦を警戒していた。日韓併合と満州国建国により国境は事実上地続きとなり、その脅威は日露戦争時とは比較にならないほど高まっていた。従って最も長く国境を接する満州は必然的に最重要地域となり、陸軍が最も諜報に力点をおくことになる。

諜報活動が活発化したのは、「シベリア出兵」直前の1918年初頭であった。陸軍ではシベリアでの正面戦闘以外の活動、すなわち「情報収集」や「敵地への宣伝工作」「日本に味方する勢力とのコンタクト及び育成支援」などの諜報業務を戦闘地域でどのように行うかが課題となっていた。

これらの問題を解決するために、参謀本部は司令官指揮下に専用の工作組織をおき、現地活動を可能にしようとした。この時に設立された特務機関の一つが「ハルビン特務機関」である。シベリア出兵が失敗に終わると、日ソの国交樹立でソ連国内の特務機関が閉鎖していく。一方ハルビンをはじめとする満州方面の特務機関は引き続き情報収集を続けた。

昭和となって大陸への日本軍進出が活発化すると、各機関は19404月に関東軍直属の「関東軍情報部」へと改変され、ハルビン、チチハル、奉天、アパカといった各地の特務機関は、その支部として組み込まれた。こうして巨大した諜報網は満州全域に広がり、最盛期には戦闘員が4000人にを越えたといわれている。

諜報活動と外国人部隊の設立

特務機関内部には、対ロシア人工作専門の「白系露人事務局」がおかれ、協力者の増加を狙った宣伝工作や機密情報の入手を行うと同時に手に入れた文書は「文書諜報班」が独自に分析と翻訳を実行する。これらは193611月に制定された「哈爾賓機関特別諜報」に基づく活動でソ連共産党から逃れてきた亡命ロシア人の協力を得つつ、ソ連総領事館の現役電信員もひきこみ、かなりの情報を仕入れていたといわれる。

 しかしソ連も特務機関の動きは察知していたようであり、偽情報(ディスインフォメーション)を掴まされることも多かったといわれている。さらには入手した情報も、諜報戦を軽視する関東軍上層部の理解がたりないせいで、作戦に活かされることは少なかった。

 その一方で成功をおさめた活動が存在していた。外国人部隊の設立である。

 満州には、革命後のソ連から亡命してきた白系ロシア人が多数存在した。そうした反ソ派の人員を中心に1937年に設立されたのが、約250人のロシア人兵士で構成された「浅野部隊」である。1937年には下部組織の牡丹江機関が「横道河子隊」を、1944年にもハイラル北方の警備を担当する「コサック警察隊」を編成する。最大150人と小規模ではあったが、満州国軍の正規部隊として、1945年まで配備されたのである。

 さらにロシア人だけではなく、モンゴル人による部隊も編成されていた。第868部隊、通称「磯野部隊」といわれる。19419月に約800人のモンゴル人を集めて編成された部隊であり、目的はモンゴル方面の防衛と敵地での謀略活動である。

 当時のモンゴルは、ソ連の影響下にあったため日ソ開戦時の活躍を期待されていた。しかし対ソ戦の可能性は日ソ不可侵条約締結によって事実上なくなり、2年以上外蒙古で飼い殺し状態となっていた。1943年に移動が命じられたが、行先は中国東北部の興安であり、部隊名は「第53部隊」に変更となる。翌年1944年には関東軍へ転属され、「第2遊撃隊」として満州西方の防衛につかされた。ただ状況に振り回されはしても我が国を裏切ることはなく、19458月のソ連侵攻においても松浦友好少佐に指揮され、果敢に戦っている。

 特務機関が考案した中で最大規模の作戦が、「K号工作」である。日ソが開戦すれば偽のソ連軍警備艇を使用し、工作員をソ連兵に変装させて、アムール川の鉄橋や川沿いの施設を爆破するという壮大な作戦計画である。この作戦計画は中止となったが、実行されていればソ連との戦いの推移は変わっていたかもしれない。

ハルビン機関の終焉

 ハルビン特務機関は、数ある特務機関の中でも活動期間の長い組織である。そのため戦史で名を残した名将にはこの機関の出身者が少なくない。東条英機の後任として総理大臣となった小磯国昭、満州事変の立役者の一人である土肥原賢二、ポツダム宣言受諾後に千島列島を攻撃したソ連軍から千島を防衛した樋口季一郎など全員ハルビン特務機関の構成員kじゃ機関長を経験していた。

 194589日のソ連軍参戦とその後の満州制圧でその歴史に幕を閉じることとなった。モンゴル人部隊はソ連軍の数に敗れ、戦線離脱を余儀なくされ、白系ロシア人部隊も再結集したものの、関東軍にソ連軍と間違えられて、誤爆により全滅するという結末をたどっている。

動画編


※戦前の我が国の仮想敵国として陸海軍ともに北のソビエト連邦を意識することができていたら、アメリカとの戦争になっただろうか?
北からのソ連軍の脅威ということに国家防衛の主眼をおいていたら、ソ連コミンテルンやソ連軍の諜報戦略に惑わされることもなかったかもしれない。第二次大戦の歴史的総括が進んでいますが、ある意味ソ連の諜報戦に敗れたという側面もあるのではないでしょうか?



2020年5月10日日曜日

満州第502部隊 ~旧日本陸軍幻の特殊部隊~

日本初の特殊部隊の卵

1941年(昭和16年)11月に対ソ連開戦を危惧する旧日本陸軍は、関東軍に対して敵地工作を主任務とする新部隊編成を指示していた。この指示に従って新設されたのが、満州第502部隊である。

 数千人単位で編成される通常の連隊に対して、精鋭による遊撃戦を想定した第502部隊の隊員数は、約300人のみ。隊員は他の部隊から引き抜いたベテランだけで構成されていた。部隊の本部がおかれたのは、
満州の吉林である。対ソ連開戦時には、敵地での破壊工作を行う、ことになり、橋梁や後方陣地の爆破を実現するべく、隊員への訓練は苛烈を極めていたといわれている。

 夜間、寒中の行軍訓練から軽装備での山岳踏破、時には30km以上の装備を背負って1日約80kmの行軍を強いることもあったといわれる。中でも爆発物の取り扱いや目標施設の破壊法などは徹底的に叩き込まれる。
橋を模した施設と模擬弾を使用した実戦演習もよく行われていた。
 その一方でユニークな戦術訓練も取り入れていた。それが、気球を使って敵陣に侵入する訓練である。航空機よりも静かであり、隠密行動に適するとして研究が始められ、1944年5月には隊員に搭乗飛行させる「
き号演習」が実施されている。しかし気球は、気流の影響を受けやすく,重りや排気弁を操作しても思い通りに操縦するのは極めて困難であった。演習においても隊員の1人が危うく遭難しかけており、結局1945年8月
のソビエト連邦侵攻においても気球が使われることはなかった。

発揮できなかった実力

 1944年3月に第502部隊に転機が訪れることになった。部隊の拡充再編が決まり、遊撃戦の専門家である鶴田国衛少佐が着任したのである。鶴田少佐は、陸軍中野学校の元教育主任であり、日中戦争初期の経験をベースに「遊撃戦経典」と呼ばれる遊撃戦の基礎を構築
した実績を持つ。
 1944年4月の会議では、鶴田少佐を含む関東軍の幕僚の多くが、日ソ戦は、ソビエト連邦の先制先制で始まると予想して、橋や線路の破壊で進軍を遅らせ、主力部隊が準備を整えるための時間を稼ぐ部隊が必要であるとの結論が下された。

 対ソ連戦にむけて「機動第一旅団」が創設されると第502部隊も編入が決定する。総兵力は旅団全体で約6850人を数え、初期の300人体制と比べて約20倍以上の規模となった。しかしやはり対ソビエト連邦部隊ということで、対米対英を中心とする戦闘に出撃する機会は巡ってこなかった。
 1944年6月に第502部隊へ釜山港からの出撃命令が下ったことはあったが、港への到着後に中止となって吉林へ帰還している。中止の理由は未だに不明であるが、アメリカ軍が攻撃中のマリアナ諸島への援軍として派遣されるところを、関東軍が虎の子部隊の引き抜きを嫌って猛反対し、やむなく中止したとの見方が有力である。

 1945年になるとナチスドイツが敗色濃厚になって満州沿い国境のソ連軍が日々増員され続け、関東軍では、ソ連参戦の時期に関する議論が白熱していた。ソビエト連邦が1945年4月に日ソ不可侵条約を破棄したため、8月中にも戦闘が始まるとする者もいたといわれるが、大半は
部隊の集中と補給にかかる時間に鑑み、ソ連参戦は9月~11月の間と結論づけられてしまう。
 ソ連軍の8月の満州侵攻に対して、第502部隊を含む「機動第一旅団」は有効な手段を講じることができなかった。ソ連による攻撃が奇襲攻撃であったことで、特殊作戦をしかける余裕がなく、通常部隊としての戦闘を余儀なくされ、8月12日には小規模な橋梁爆破が行われたが、敵の侵攻を遅らせることは敵わなかった。夜間強襲で対抗したが、圧倒的な物量のソ連軍には太刀打ちできず、多数の戦死者を出しつつ、9月3日に本土からの武装解除命令に従い投降する。旧陸軍初の特殊部隊となるはずであった部隊は、訓練の成果を十分に発揮することもなく、
その歴史を終えたのである。

動画でみる満州第502部隊

今の陸上自衛隊の特殊作戦群のご先祖さまにあたるわけですね。特殊部隊構想は既に旧軍のころからあったということです。しかしソ連軍の侵攻が速すぎたというより、情報部隊とリンクしながら、戦略を実行し、ソ連軍の満州侵攻を阻止してほしかったな、と思ってしまうのは私だけでしょうか?



2020年5月7日木曜日

満州の化学戦研究部隊 日本陸軍516部隊

禁止された非人道兵器
 第一次世界大戦では、枢軸国側も連合国側も両陣営が使用した「化学兵器」であったが、人間を必要以上に苦しめる残酷な兵器であるという観点から1925年のジュネーブ議定書において規制対象となった。そして第二次世界大戦と時には実戦に投入されることはなかったといわれている。
 しかしジュネーブ議定書には、化学兵器の使用について「研究行為については使用を禁止しない。」という法的な抜け道が存在した。世界各国が密かに化学兵器の開発を継続していたのはこのためであり、ジュネーブ議定書を批准しない我が国についてもそうした国々の一つであった。そして我が国で「化学戦」分野で役割を担った組織が「516部隊(関東軍化学部)」であった。731部隊との違いは、731部隊は毒素の強い細菌を利用した生物兵器の研究を重視していた。(バイオ兵器)
 毒ガスなどの化学兵器(ケミカル兵器)は516部隊の担当であったといわれる。ただ731部隊と516部隊は、共同研究を行うこともあったとされているため、両隊ともとても近しい関係であったことは間違いないであろう。さらに組織の存在が極秘扱いされた点も731部隊との共通点である。
 516部隊は、1939年に関東軍技術部化学兵器班を再編する形で誕生した組織である。本部は満州のチチハル。兵器研究と毒ガスの有効的な使用法の確立などを行っていた。研究の方法論は、確かに現代人の感覚からみれば非人道的な行為ではあるものの、方法はどうであれ、研究そのものは合法であった。しかし516部隊が開発した化学兵器は実際に使用されたことがわかったのである。

 戦後の研究結果によると、日中戦争時に山東省を中心に毒ガスが使われたことが判明したのである。使用回数も1度や2度ではなく、終戦までに中国大陸全土で約1000回を超えていたといわれる。ただやはり国際条約違反なので大きな規模で使用されることはなく、部隊の単位での小規模使用がせいぜいの状態であった。ガスの種類も非殺傷の催涙系がほとんどであったといわれている。



習志野学校の真実
 陸軍習志野学校において、高度な化学的な知識を身に着けて、研究員を各隊へ供給していた。

1932年 第一次世界大戦で毒ガスの実用化の事実を知った旧日本陸軍は、化学戦に備えた研究機関をたちあげるに至った。(習志野学校の設立)※場所が千葉県習志野市
当初は防護策の研究のみを担う小規模な組織であったが、満州事変以後の軍部の権限拡大に伴い、人員は年々増加していき、最終的には約1360人を擁する毒ガス研究の中心地となるのである。

学校では、毒ガス関連の部隊に配属予定の将兵に対する基礎教育、つまりは毒ガス基礎知識と取り扱い方法、防護法の教育を行い、日米開戦後は実用訓練にまで施すようになったという。そして
卒業生が最も多く配属された部隊が「731部隊」と「516部隊」であった。さらに「瓦斯兵」として通常部隊へ派遣された兵も多かったといわれている。さらにそれ以外の配属先としては、軍の毒ガス工場があげられる。

日本軍が毒ガスを生産していたことは、今では広く知られており、かつて工場のあった広島県の大久野島は、跡地を一部だけ一般公開している。工場配属となった兵士は、島でガスの量産に携わり、またはガス砲弾を製造していた福岡県小倉南区の曽根製造所での製造作業に当たった。

1943年 海軍も神奈川の相模工廠でガス兵器を量産したとされている。まさに毒ガス研究は関東軍の独断などではなく、本土でも組織的に進められた日本軍の正規の方針であったのである。

516部隊を含めたこれらの組織と施設は、敗戦とともに廃止となったが、同時に現代まで続く問題をも残してしまった。
終戦までに生産された数万発といわれる毒ガスの行方である。

ほとんどは解散の時に処分されたといわれるが、中には海や地中に廃棄されたものも少なくはない。
2002年に習志野などの施設跡で土壌汚染が確認されている。

また共産中国でもこの問題は例外ではなく、2003年8月に516部隊がいたチチハルの建築現場にて、毒ガス入りのドラム缶を発見した作業員を含む44人の民間人が中毒症状に襲われ、うち一人が死亡する事件がおきている。大戦が残した負の遺産は、現在でも各地で息を潜めているようである。
※共産中国国内での旧日本軍の残留兵器については、当時の日本軍が処理をしなかったというよりも、兵器を接収した国民党軍がしっかり処理しなかった、とも考えられる。

旧日本軍の毒ガス砲弾を発見 愛知県田原市

2020年5月5日火曜日

旧日本陸軍細菌戦部隊 731部隊の正体

イギリス人科学者であるフィリップ・ハーバー氏によって考案された毒ガス兵器は、少人数で多大な被害を敵に与えることができる上に、敵の兵器には何ら影響を与えない。人間の殺戮だけを目的とし、残された敵の兵器を奪い取ることも可能な、目的に徹した「兵器」であった。

第一次世界大戦では、毒ガス兵器の使用、応酬によって戦場は地獄絵図と化し、ヨーロッパは荒廃するに至った。この反省から1925年6月「ジュネーブ議定書」にて毒ガスを含む化学兵器と細菌兵器の使用が禁じられる。※ただアメリカ、日本はこの議定書を批准していない。

そうした第一次大戦後の欧州の現状をみて危機感を覚えた人物が、陸軍軍医の石井四郎中将だった。石井中将は、千葉県出身で、京都帝国大学で医学を学んだ。卒業後は、陸軍の軍医として東京の第一陸軍病院に配属される。その後京都帝大大学院で細菌学、血清学、防疫学、病理学などを研究し、1928年に2年間に及ぶ海外視察旅行に出発する。

帰国した後に石井中将は、陸軍省や陸軍参謀本部に対して化学兵器、細菌兵器の有用性を主張し、新しい戦争の形を追求すべきと提唱した。

その石井中将が中心となって設立された組織が「関東軍防疫給水部本部」通称「731部隊」である。
※731部隊とは、「満州第七三一部隊」の略であり、初代部隊長である石井中将にちなんで「石井部隊」ともいわれた。その任務は、疫病の予防と浄水の提供である。

当時の我が国陸軍の重要課題として防疫と浄水の問題があった。疫病の蔓延は兵士の致命傷にかかわる。令和に入ってからの新型コロナウイルスの米軍での感染者拡大にみられるように、一人が罹患すれば周囲の者にも感染が広がり、場合によっては組織が稼働しない状況に陥ってしまう。

また清潔が確保された国内と違って、中国大陸や南方の諸島で生の水を飲むということは、最悪の場合は命に関わるのである。

1932年 関東軍防疫班が満州で組織化。
1936年 関東軍防疫部を新設。
1940年7月 関東軍防疫給水部に改編。(本部が731部隊となる。)

表向きの任務は、衛生状態が国内に比べてよくない満州において防疫、浄水の供給を行うということであったが、実はもう一つ「極秘任務」があったとされている。それが「細菌兵器」の研究と準備である。

改編の時の731部隊には軍人1235名、軍属2005名が所属した。研究予算は年間約¥200万であり、これは当時の東京帝国大学に与えられた予算額に匹敵するものである。

2年がかりで新設された広大な研究施設には、数千人を収容できる宿泊所、管理棟を含めた約150の建物のほか、鉄道引き込み線や飛行場、運動場などが設営された。そして「ロ号棟」と呼ばれる中枢施設の中で「生体実験」が行われたとされている。

関連の動画です。

戦場における防疫
 旧日本軍は、既に日露戦争当時から戦場における防疫に力を入れていた。当時病気は「静かなる敵」と呼ばれ、病死者は銃撃などによる戦死者を大きく上回っていた。
 
 例えば、1898年米西戦争では、戦死者一人に対して病死者は14人にも達していた。日清戦争においても同じ程度の比率であったとされている。その反省をいかして、旧日本軍は負傷者の治療だけではなく、予防細菌学を戦術計画に取り入れていく。そのため細菌によって腹痛や下痢などの症状が起きないよう食事の後に服用する「クレオソート」という錠剤が配布された。この独特のにおいと苦みを持つ錠剤は「征露丸」とネーミングされ、後に「正露丸」と改名されている。

徹底解説!正露丸

人間モルモット・マルタ
 731部隊の細菌研究部門は12以上の班に分かれ、それぞれが様々な細菌の軍事的可能性を研究していたとされている。その効果を実証するのに最も適していたものが、動物ではなく人間を使って行う実験であった。
 着目されたのは、関東軍の憲兵や特務機関に逮捕された囚人たちであった。
 スパイなどの容疑で逮捕された朝鮮人、中国人、モンゴル人、ロシア人、アメリカ人捕虜などが次々と研究所へ送り込まれ、実験のための「人間モルモット」として利用されたといわれる。
 中には「仕事を紹介する」という誘いをうけて女性や子供までも実験の対象となった。被験者たちは、「マルタ(丸太)」と呼ばれ、非人道的な扱いを受けたとの証言がある。

 例えば生きたまま病原菌を植えられ、絶命するまでの様子を観察された。病気に冒された対象者は、食事も与えられずにやせ衰えていく。それでも病原菌の状況を調べるために日に数回採血がなされる。枯れ枝のようになった腕に注射器が刺しこまれ、無理やり血液が抜き取られ、やがて絶命する。
 また梅毒の効果を調べるために性病を感染させられた妊婦もいて、罹患して生まれた子供は研究材料として母親から引き離された。子供が母親の手に返されることはなく、後に解剖されたといわれる。
 その他に麻酔をかけられずに手術される者、生きたまま内臓が取り出される者などもおり、マルタとされた人たちは苦しみ悶えながら絶命した、という証言が残る。
 細菌兵器開発のための実験とされた被験者の数は、終戦後にソビエト連邦と共産中国が行った調査では3000人以上とされている。

解明されない部隊の真相
 しかし一方で細菌兵器開発に関連した人体実験そのものは行われなかった、という証言もある。人体実験の実行の根拠は、元部隊員など関係者の証言であり、文書の形での証拠は発見されていないのである。近年になってアメリカの公文書が機密解除されたため調査が行われたものの、その中にも人体実験の記録はみあたらない。
 極東国際軍事裁判でも731部隊の関係者は裁かれていない。
※これについては、石井中将らの研究成果をソ連に先んじて独占しようとしたアメリカ側が、免責の方針を採用したからであるともいわれている。
※1949年に開催されたソ連による軍事裁判(ハバロフスク裁判)で訴追はされているものの、ハバロフスク裁判自体が西側諸国によって「ソ連のプロパガンダ」であるとして無視されている。

中国人人体実験現場検証 731部隊石井部隊


【731部隊】新資料から実像が浮かび上がる!

731部隊、詳細な隊員情報や組織機構が判明 
70年前の公文書を新発見
6/22() 10:15配信https://news.yahoo.co.jp/articles/45dbc079f96e9d5c8d9da05fc78047f00045486a

京都新聞

 第2次世界大戦中に細菌戦の研究をした「731部隊」を本部とする旧関東軍防疫給水部(関防給)について調査している滋賀医科大名誉教授らが19日、戦後に政府が作成した関防給に関する公文書を発見し、組織機構や支部の隊員の所属、敗戦前後の行動の一端が明らかになったと発表した。支部で細菌を生産していたことも公文書で初めて裏付けられたという。「不明な点が多い組織の隊員一人一人の情報や、元隊員の証言などの根拠となる文書で、歴史を検証する上で意義深い」としている。

 公文書は195051年に作成された「関東軍防疫給水部部隊概況」。滋賀医大名誉教授の西山勝夫さん(78)らが昨年、国立公文書館で見つけ、今年3月までに公開された計41枚を分析した。  公文書から、関防給は本部と五つの支部などから成り、それぞれの組織機構も裏付けられた。大連支部については「終戦時迄(まで)主として細菌の研究及(および)生産に住じていた」(原文ママ)と記述があった。  
 また林口、牡丹江、孫呉、海拉爾(はいらる)の4支部については「細部調査票」との文書があり、隊員の氏名や階級、本籍などが記されていた。さらに各支部の変遷を示す表のほか、敗戦前後の各支部の部隊の行動を地図上に示した「行動群経過要図」もあり、経由地や日にちのほか合流や戦闘などの記載から部隊の詳細な動きがうかがえる。  
 隊員が戦後、旧ソ連に抑留された際の収容所名を記した文書もあった。51年段階で政府が敗戦時の関防給の隊員数を計3262人としていたことも分かった。  
 一方、公文書には本部(731部隊)や大連支部の細部調査票や行動群経過要図などが含まれていなかった。西山さんは「他の支部があることから考えると不自然。文書公開まで長期間を要すると、生存者への聞き取りなど検証がしにくくなる。速やかに公開する仕組みが必要」と指摘した。今後医学や歴史学の研究者らでつくる「15年戦争と日本の医学医療研究会」(大阪市)などと協力し、調査を進めるとしている。

細菌戦「731部隊」の新資料発見 
「ないはず」の戦後公文書 細菌生産を明記
202027https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/155056?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink

関東軍防疫給水部行動経過概況図の実寸複写と西山名誉教授


 第2次世界大戦中に細菌戦の準備を進めた旧関東軍防疫給水部(731部隊)について、戦後に日本政府が作成した公文書が6日までに、発見された。京都帝大などから派遣された医師らが人体実験を行ったとされる731部隊について、政府はこれまで国会で政府内に「活動詳細の資料は見当たらない」と答弁をしており、発見した西山勝夫滋賀医大名誉教授は「まだまだ731部隊に関係する資料が埋もれている可能性がある」と話している。
 発見された公文書は戦後5年目の1950年9月に厚生省(現・厚生労働省)復員局留守業務第三課が作成した「資料通報(B)第50号 関東軍防疫給水部」との文書。西山名誉教授が昨年11月、国立公文書館から開示決定を受けた。文書は計4ページあるが、もっと分厚い資料の一部だった可能性がある。戦後中ソに取り残された元731部隊の軍医や軍人らの状況を把握するために作成された資料で、「関東軍防疫給水部の特異性 前職に依る(サ)関係者が多い」と書かれている。
 うち1枚は「関東軍防疫給水部行動経過概況図」と題された縦約90センチ、横約60センチある大きな図面。「防給本部」について「部隊長 石井四郎中将以下約1300人内外 本部は開戦と共に全部を揚げて北鮮方面に移動すべく」などと満州(現・中国東北部)から日本に帰国するまでの経路が図説され、本部第一部が細菌研究、第四部が細菌生産などと部隊構成も記載されている。
 図は大連支部や牡丹江支部、ペスト防疫部隊など、関東軍防疫給水部の各支部がソ連参戦時にどういう部隊構成だったか、武装解除や敗走経路、ソ連に抑留された人数や指揮官の氏名、中国側に残留している人数なども記載している。731部隊はハルビン近郊にあった本部と実験施設を爆破し研究資料も廃棄処分したとされるが、撤退の経路が日本側公文書で裏付けられるのは初。731部隊の本部では日本に帰国し、戦後の医学界や製薬会社で活躍した人物が多いが、今回の資料で各支部は混乱した状況だったことも明らかになった。
 731部隊の生体実験やペスト菌散布などを示す戦時中に作成された文書や論文は国内や中国で発掘が相次ぎ、占領期に米国が石井元731部隊長や解剖した医学者らに尋問した調書も機密開示されているが、戦後に日本政府は731部隊について「調査しない」との見解を繰り返しており、公文書が存在した意義は大きい。

 日本政府は、731部隊のペスト菌散布を裏付ける金子軍医少佐論文(1943年付)が国会図書館関西館(精華町)で発見された際も、2012年の国会答弁で「政府内部に資料が見当たらないのが実態」と答弁している。