【イギリスの元スパイが説く】日常生活においても大事な「秘密」と「謎」の区別
デビッド・オマンド
2022/02/13 06:00
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重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか?
そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。
現実の予測には限界が内在している
アメリカのSF作家アイザック・アシモフの著作『ファウンデーション対帝国 銀河帝国興亡史2』では、架空の学問である「心理歴史学」という経験科学が、文明の興亡を社会学・歴史学・数理統計学を用いて宇宙規模でモデル化されている。
統計力学では気体中の個々の分子の動きは(量子効果の影響を受けるために)予測ができないものの、分子群全体の動きは予測できる。これと同じように、アシモフは、歴史の大きな流れを推測できると設定している。心理歴史学の生みの親とされる作中人物のハリ・セルダン博士によると、行動がモデル化される母集団は十分な規模があると同時に、心理歴史学的分析の結果が知らされていないことが重要な前提になる。母集団が結果を強く意識すれば、行動を変えるからだ。
このほかにも「人間社会に根本的な変化がない」「人間の本質と刺激への反応が変わらない」という前提もある。よって、アシモフは、銀河系規模での危機の到来は予測することができ、最も必要とされるときに開くようにプログラムされた「時間霊廟」を建設して、(セルダン博士のホログラムによって)助言を与えられるとした。
心理歴史学は、SF小説の作中だけの架空の学問のままになるだろう。おそらくそれでいいと思う。こうした発想には、初期条件を十分に示すことができないという大きな問題がある。天気の決定論的予報も、1週間ほど過ぎると、予報と観測の乖離が大きくなりすぎて役に立たなくなる。また、複雑系ではモデルが非線形であることが多く、小さな変化がすぐに大きな変化に変わる。
現実の予想には、限界が内在しているのだ。大きな流れの予想はできるかもしれないが、詳細についてはできない。ごく小さな乱れ(チョウの羽ばたきとしてよく語られる)からさまざまな事象が積み重なって増幅され、気象が大きく変化して、地球の反対側でハリケーンが発生する。国際情勢の予想は、検証の基準が細かくなるほど、考慮すべき変数、不可測要素や仮定が増え、長期予想の精度が低下する。
物理現象のレベルでも、すべての活動がモデルに従うわけではない。原子核の放射性崩壊が一定期間内に何度起こるかは発生確率によって知ることができるが、それが実際にいつになるかは予想ができない。光の粒子や電子が狭い一対のスリット(隙間)を通過するときの正確な経路も、確率によってしか事前には予想できない(量子物理学の重要な原理を実証する有名な二重スリット実験)。
日常生活においても大事な「秘密」と「謎」の区別
情報について、さらに考えるべきことがある。それは「秘密」と「謎」を区別することだ。秘密は、「創意工夫」「技術」「手段」といったものがあれば見つけ出すことができる。ところが、謎はそうもいかない。秘密を多く暴いても、独裁者の心理状態の謎が解けるとは限らないのだ。
それでも情報分析官は最善を尽くして潜在敵の心理を評価する。それが政策立案者の方針決定に影響を与えるからである。政策に関係する人を知り、その動機を解釈したうえで、人が通常どのような行動をするかという観察にもとづいて推測する。とはいえ、その判断を「誰が行うか」によって見方は変わる。中立の者と、侵略される危険がある国にいる者とは、見方が異なるのだ。
謎は証拠状況が大きく異なり、まだ起こっていない(したがって起こらないかもしれない)出来事に関する懸念である。情報を活用するには、こうした謎をいかに解決するかが重要になる。
1982年初頭、アルゼンチン軍事政権の海軍総司令官で、強硬派の筆頭だったアナヤ大将は、フォークランド諸島侵攻計画に着手するよう密かに命令を出した。この瞬間に収集すべき「秘密」が生じた。一方、その計画を軍事政権が承認して実行を命じるのか、それがいつになるのかは、ずっと「謎」だった。
さらにやっかいなのは、「複雑な相互作用」によって問題がより難しくなることだ。1982年、アルゼンチンの軍事政権は、自軍がフォークランド諸島に侵攻した場合、イギリスがどのように反応するかを完全に読み違えた。
また、米英の長年にわたる軍事関係を十分に考慮しなかったため、アメリカの反応も見極めそこねた。英国防大臣ジョン・ノットと米国防長官キャスパー・ワインバーガーが、個人的な親交を深めていたことにも気づいていなかったのかもしれない。ワインバーガーは、フォークランド諸島奪還のために海軍の特別部隊を派遣するというマーガレット・サッチャー英首相の鉄のように強硬な対応を支持した。武力による侵略は割に合わないということをソ連に示す意図もあった。
「秘密」と「謎」の区別は、日常生活においても大事だ。たとえば、パートナーがかつての恋人からのメールを携帯電話に保存していて、それをあなたには「秘密」にしているとしよう。ところが、そのメールを見ても見なくても、なぜパートナーがかつての恋人からのメールを保存しているのか、そして昔の恋人にそのうち連絡するつもりなのかという「謎」は解決しないし、それはパートナー自身にもわからないだろう。
パートナーがどうするかは、これから何ヵ月かのあなたの振る舞いによって左右されるかもしれない。なぜなら、あなたがどう振る舞うかによって、2人の関係が変わるからだ。このような複雑な相互作用が起こる状況下での予測は、つねに難しい。
[レッスン2]の教訓を学ばずに状況認識から状況予測へと飛躍するのは─たとえば、傾向の推定や、状況が変わらないという仮定によって─よく起こしがちな過ちで、「帰納的誤謬」と呼ばれている。窓の外を見て天気を予報するようなものだ。今日の天気は明日も続くかもしれないが、急速に発達する前線があればそうはならない。気象に内在する力学を考慮しなければ、ふだんは当たる予想が当たらなくなる。
予想がはずれたときは鉄砲水が起こったり、予期せぬハリケーンに襲われたりといったような大規模な被害につながるかもしれない。それは国際情勢においても、人生においても同じだ。思い込みに頼って間違えたときは、とても大きな過ちになる。専門家でさえ、この罠に陥る。
私はリスクの予測には、実践的な知恵を働かせる必要があることを説明するため、ギリシャ語の「フロネシス」(実践的な知)という言葉をよく使う。それは過去から未来を予測し、現在を正しく判断する直感のようなものだ。美術史家のエドガー・ウィントは、状況に対して健全で実用的な衝動からなる人間の行動にも、すぐれた判断が適用できると述べている。
まとめ 推定と状況予測
事態がどう展開するか、また次に何が起こるかを予測するには、信頼できる「説明モデル」と十分な「データ」が不可欠だ。たとえそれを意識していなくても、未来について考えるときには、私たちは頭のなかで現在のモデルを構築し、選択した説明が時間の経過とともに、そして異なる情報や刺激に反応してどう変わるかを判断する。
「影響を受けそうな最も重要な要因は何か」「環境の変化がどのくらい影響をおよぼすか」を見極めれば、「次は何が、次はどこが」ということを考えられる。その問いに答えるには、次のポイントが欠かせない。
・状況認識からすぐに状況予測をして「帰納的誤謬」に陥るのを避けるため、重要な変数の相互作用を考えるための説明モデルを用いる
・「どのような予測にも限界がある」という現実を受け入れ、予測した結果を確からしさの度合いとともに示す
・「可能性がある」などの語を使用するときの一貫性に注意し、判断に対する信頼度を確率言語で示す
・(可能性は少ないものの)損害をもたらす可能性があるものについて、最も可能性の高いものと同じように考察する
・フォールスポジティブ(誤検出)の基準を下げれば、フォールスネガティブ(見逃し)の増加が予測されることに注意する
・個人または組織の「行動能力」と、その「行動意図」を混同しない
・他者の動機や意図を説明するときは、「文化」の違いや「偏見」に注意する
・情報にもとづいた結論と、過去の経験・推定・直感(秘密・謎・複雑なもの)をもとに考えたことを区別する
・他者の動機を理解しようとするときに、判断を誤らせる「先入観」に警戒する
・自分が思った通りに事態が展開するか、また行動や政策の変更を引き起こそうとして積極的に行われる議論に注意する
デビッド・オマンド(David Omand)
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。