2021年8月20日金曜日

最も危険な教科書 陸軍中野学校の新史料

  第二次大戦の終戦時にすべて焼却処分されたと思われていた陸軍中野学校の教材資料一式が、新潟県の旧家に保存されていたことがわかりました。

 史料の所有者は、陸軍中野学校8丙の卒業生だった齋藤津平氏(陸軍参謀本部軍事調査部・中野学校83班)。史料を発見した時の経緯は以下の通り。

「久しぶりに蔵の中を整理したんです。机の上に忘れていた布製のリュックサックがありまして中のものを取り出してみると中野時代の教材が入っていたんです。どうして蔵の中にあったのか、その時は思い出せなかったのですが、中に日記(修養禄と表題が書かれている)もありまして、読んでみると理由がわかったんです。リュックサックを送ってくれたのは、親しくしていた同期の由良見習士官で、彼は私の私物を実家に送るときに教材を間違えて入れてしまったんです。後に未回収が問題になったこともないので私は忘れていました。」

齋藤津平氏所蔵の陸軍中野学校テキスト資料


『修養録』

194529日のページ

《晴れ・「風と共に去りぬ」を見学す。宣伝映画としては当を得たものなり。然して、映画内容よりアメリカ人の気質を知りえたることは幸いなり。南部アメリカ人の野性的にして闘争的なスピレット(原文ママ)は軽視すべからず。些細な情報源からも敵の国民性を観察すること必要なり。映画よりかかる教訓を得たるは可なり。》

 資料はノートの修養録のほかに、粗末なワラ版紙にガリ版と和文タイプで印刷された教材が保存されており、それらがぼろぼろに風化することなく、判読できる状態で今日まで残されていた。

津平氏が蔵から持ち出してきた資料を列挙すると、以下の通り。(教材の表題)

『国体学』、『謀略』、『宣伝』、『諜報』、『偵謀』、『人に対する薬物致死量調』、『伝染病と灸法』、『重慶政権の政治』、『経済動向観察』、『総合演習計画書』(演習目標を示す手製の地図、同じ地図が20枚綴られる)など。(積み上げると10cmの厚さ)

 宣伝教材としては、例えば謀略放送を企画するときは、ゲーテの戯曲ファウストに登場するメフィストの気持ちを真似る方法を解説している。

 《謀略放送とは、親しい友人の間に水を差して、互いに疑惑の目をもって見るように導き、遂に闘争をさせるということである。まず敵国民なり、前線兵士なりに同情していう。そこで「メフィストフエレス」の様に一言耳に囁き、それによって為政者なり、将校なり疑わせ、聞く者の心に偽みを起こさせるのである。(後略)》

 メフィストの心理を謀略放送に用いるなど、なかなか斬新なアイディアを研究している。女性の口説き文句としても通用するであろう。

 他にも謀略の本義や薬物の致死量を解説した教材もあり、当時の中野学校の教育内容がレベルの高いものであったことが、これらの資料によって裏付けられた。

『謀略の本義』

《国家間の闘争は、武力に依るのみならず、政治、経済、思想等いわゆる総力戦の全部門にわたり、行はるるものにして、従って平戦時とも、軍事、経済、思想等国家対外施策全部門にわたり、用いらる(後略)》

 内容は現代の情報戦にも通じる謀略の本質を解いており、中野学校が“見えない戦争(UnseenWar)”を実戦向きに教育していたかを示している。

 津平氏ら8丙の学生は、昭和20715日に移転先の富岡校を卒業しているが、8丙の教育機関は、中野時代と富岡時代をあわせて7ケ月間であった。ただ終戦が近くなると戦局が切迫してきたため、より実戦を想定した演習や訓練が主体となった。

「英語班、支那班、ロシア班の三班があった中で、私は支那班に席がありました。富岡時代は諜報員としての教育よりも、図上演習による遊撃戦、米軍の本土上陸を想定したゲリラ戦のシュミレーションを各地でやっていました。それは群馬の高崎であったり、埼玉の児玉、あるいは本庄といった町でした。当時の米軍との決戦場は、関東平野と南九州が想定されていました。」(津平氏談)

ゲリラ戦の訓練をうけた元兵士

陸軍中野学校の疎開先