中野学校については沢山の書籍が発売されていたり、ネット検索なんかでも、多くの記事が書かれているので知っている方も多いのではないのでしょうか。
戦時銃は、中野学校から輩出された優秀な諜報員が様々なところで活躍することになります。
有名な方では小野田寛郎さんも元中野学校出身者です。
戦後29年間も「残置諜者」としてフィリピンのルバング島で、活動し続けたことは記憶に新しいと思います。
ユーチューブなんかでも小野田寛郎さんの動画は沢山見れますが、帰国時のその鋭い眼光は未だに目に焼き付けていると共に、戦争の厳しさ、激しさなどを物語っていました。
特に、アメリカのCIAやロシアのFSB(旧KGB)、イスラエル・モサド、イギリスMI6が有名ですね。
イギリスMI6なんかは007(ダブルオーセブン)の映画が有名で、ジェームスボンドをご存知の方も多いと思います。
そんな世界的に有名な諜報部隊に引けをとらないスパイ部隊が日本にもあったのは驚きですね。
諜報・謀略・防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、科目のほうは、軍事学(兵器・築城・航空学など)、外国語(英語・ロシア語・中国語)、武術(剣術・柔術)、細菌学、薬物学、法医学、実習(通信・自動車など)、講義(忍術・法医学など)、その他(気象学・交通学・心理学・統計学など)などこちらも多岐にわたっています。
古くから伝わる忍術の他に、金庫の開け方、手錠の外し方、殺人法、(人殺しの極意、暗殺)など、広範囲に渡って学習したようです。
スパイの殺人は密かに、しかも一瞬で果たさなくてはならず毒物を使用した暗殺法が主だったようです。
「生きる-親が変われば子も変わる-」 小野田寛郎さんが講演
小野田寛郎の名言(勇気と元気が出る言葉)|何かにつまづいたり、失敗して落ち込んだり、仕事が嫌になってしまった時、きっと心を癒してくれます。
【小野田寛郎さんの遺言】戦国時代、あの時代の心掛けに成れ
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帝都を歩く 陸軍中野学校画像出典
「中野は黙して語らず」
1938年開校し、第二次大戦終戦まで8年間、2500名の人材が輩出された。その功績は一般に知られることはなく、任務中に絶命することもしばしばあった。中野学校の要員は日本国の捨て駒としてその任務を全うすることを宿命づけられていた。
こうして中野学校の任務については、謎なのであるが、戦後に卒業生が著書を刊行することにより活動の一部が明らかになってきた。
中野学校の学生は、軍服を着用することはなく、当時奇抜な長髪が奨励されていた。これは海外で諜報活動に従事する際に、軍の関係者であることを隠蔽する必要があったためである。また「スパイ養成学校」としての中野学校では、学生が自らの立場を詳らかにできるはずもなく、両親、友人、恋人にさえも自分がどんな仕事をしているのか一切説明はしなかったといわれる。
中野学校の「スパイ養成学校」としてのレベルは、世界の当時の諜報養成学校と比較しても全く遜色なかった。
岩畔豪雄(いわくらひでお)1897年~1970年
陸軍少尉。戦時中は「謀略の岩畔」と呼ばれ、外国大使館の盗撮、郵便検閲、偽札製造の研究に従事した。中野学校の設立は、1937年に岩畔が参謀本部に提出した「諜報の化学化」がきっかけとなったとされる。
入学試験
中野学校の入学試験は、面接試験の際に試験官の机の上にはインクのつぼやタバコ、本や灰皿など様々なものが置いてあった。受験生は部屋に招き入れられると名前だけ名乗ってすぐに隣の部屋に移動するように命じられる。机の上においてあったものを説明させられるのである。
こうした口頭試験がなされることは、受験者には事前に知らされていない。しかし受験者は部屋にいた瞬間に、視覚情報を仕入れ、すべてのアイテムの名称を諳んじることができたという。さらにそこにおいてあった本のタイトル名に至るまで、まるでカメラで部屋の様子を撮影したかのように正確に答えたという。
こうした難関の試験を突破した受験者たちは、情報戦のノウハウを徹底的に叩き込まれた情報戦においては、敵国や対象地域の懐の中に入り込み、誰にも気づかれずに情報を収集しなければならない。身元が日本人、軍関係者であることがバレてしまっては作戦にならないため徹底的に叩き込まれたわけである。
「天皇の名を聞いて直立不動の姿勢をとるのは軍人だけだ」
中野学校の学生も「天皇」という単語が出れば、気を付けの姿勢をとってしまうが、これはしなくていい。間違いとして厳しく指摘したといわれる。
「謀略とは誠なり」
日露戦争の時の明石元二郎氏の工作を例に、ターゲットを欺くのではなく、互いに心を通わせ事にあたることが肝要であると説いた。秘密戦に携わる者の心のよりどころである。
「諜報活動のノウハウ」
飛行機のどこにどれくらい砂糖を投げ込んでおけば、離陸後何時間で爆発するのか?
列車の転覆方法、開封した手紙を完全に元通りに復元する方法。
スパイに変装は不可欠な技法である。時には女性に成りすまして女性限定のエリアに足を踏み入れなければならないこともある。美女の変装をどう完成させるのか、女形のプロに学ぶ授業もあったといわれる。
前科無数のスリのプロを招聘し、誰にも気づかれずに、どうやってスリを成功させるかを実演させた。
甲賀流忍術の名人を招聘し、竹製のシュノーケルを使って水中に潜む方法。手足の関節を外して縄から逃げ出す方法、壁や天井をはい回る秘術などを実地で訓練した。源平合戦や戦国時代の忍術資料も使い、徹底的に座学も重ねた。「塀にぴったりついて影が映らない歩行術」
学科は諜報、謀略、宣伝、防諜に大別され、情報将校として必要な技術を叩き込まれる。
「謀略」を例にとると殺傷破壊、偽騙、潜行、連絡、潜在、獲得などの項目がある。「偽騙」とは、身分・容貌を変える変装術で、物品の偽騙では「踵を切開して埋めた後に縫合する。」という物騒な秘匿法から、ビロウな話しで恐縮であるが、「ゴムのカプセルにつめて嚥下し、排泄後に取り出す」方法がテキストに書かれている。
「道端に便がしてある。男女の区別をどうやってみつけるのか?」
電話の盗聴、暗号の解読、信書の開封、秘密インクの使用法 ~特殊技術教育~
スパイ同士の会話は、「すべての息を吐きだした後、耳元で話す。」
候察の実地教育
教官と街へでかけることがある。ある工場の前を通った。煙突から黒煙と黄色い煙があがっていた。
「工場の使用燃料は何か?」「何を生産し、その数量は?」「従業員数は何人か?」と矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
候察ではメモをとることは一切禁止されていた。敵に捕まった時に証拠を残さないためだ。
「一撃必殺の合気道&剣道」
身の安全を守るため、武道の習得は欠かせない。柔道は一撃必殺の効果が今一つということで、合気道と剣道が取り入れられた。合気道の老師範は親指1本だけで何人もの偉丈夫を簡単にねじ伏せたという。
遊撃戦(ゲリラ戦)に方程式はない。
佐渡おけさにはいわゆる正調というものはない。節も振りも各人の好みによって、いくらくずしてもいいといわれている。中野の教育も同じである。各自がその時、状況に応じて最も適切と思われる行動をとることを最上とする。
「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」
陸軍中野学校の教育方針である。「天皇のために死なず」、自分たちが命を捧げる対象は、天皇ではなく、政府や軍部でもなく、日本民族である。民族を愛し、民族の捨て石となって喜んで死ぬことができるか?が問われた。
「死ぬなら捕虜になれ」
捕虜になって敵に偽情報をつかませよ。そのために「偽装投降」という戦術まであった。功績を認めてくれるのは組織の上層部だけであり、世間的には汚名を着せられ、人知れず朽ち果てていくことが秘密戦士の宿命であった。
第二次大戦で活躍した中野学校出身者
軍事、政治、経済、心理学、思想学、ゲリラ戦術、射撃、格闘技に至るまで学びつくした中野学校の人材は戦時中、アジア各地へ赴いていった。
アジアにおいて日本軍はとりわけ中国の激しい抵抗にあっていた。ソ連、アメリカ、イギリス、フランスは各国ルートを通じて中国に援助物資を送り込んでいた。
戦況打開を図るために、中野学校出身者はイギリスからのビルマ独立を画策した。イギリスによる統治状態を解除できれば、ビルマを通じての軍事物資流入を防ぐことができる
。中国大陸へ渡った中野学校のメンバーは、相当に困難な任務を遂行していた。
「各地区正面の敵に対する諜報工作、寝返り工作、戦場謀略、経済工作或いは軍、師団司令部遊撃戦、情報勤務などに従事した」(『陸軍中野学校』中野校友会編 原書房)
中野学校は、日本軍の戦況を極めて冷静に分析しており、1942年段階で既に敗戦を予想していたといわれる。その時には、暫定的な亡命政府を海外に建設した上、中野学校の動きによって本土の占領政策を混乱させる構想があったようである。
戦時には、天皇や大本営を疎開させるために長野県松代市に巨大防空壕が建設された。戦争が終結したために松代大本営が稼働することはなかったが、もし稼働していたら中野学校出身者の精鋭が集結して長期ゲリラ戦が展開されていたかもしれない。
動画
中野学校 フェイクニュース心理作戦