2016年5月22日日曜日

フランスの英雄ド・ゴールの戦術!?

ペテン師? 賢い? 戦わずして勝つ人
フランスの英雄ドゴール
20160519日(Thuhttp://wedge.ismedia.jp/articles/-/6803

パスカル・ヤン (著述家)

著述家。ルーヴァン・カトリック大学大学院中退(ベルギー)。証券マンとして25年間、欧州を中心に海外で過ごす。現在の職業は都内大学教授。
著述家。ルーヴァン・カトリック大学大学院中退(ベルギー)。証券マンとして25年間、欧州を中心に海外で過ごす。現在の職業は都内大学教授。
サミットに大物政治家はやって来るか。ノルマンディー上陸の日はやって来るが……。
オマハ・ビーチでやっちまって
iStock
盲目の黒人シンガー レイ・チャールズが、歌手としての成功の糸口を求めて南部を離れて北に向かったとき、難儀するたびに、自分の目をさして“オマハ・ビーチでやっちまって”という方便を使うと、魔法の呪文のように、援助の手が差し伸べられた。バスターミナルでの乗り換え風景は映画『Ray』でも泣かせる場面だ。
 オマハ・ビーチとはノルマンディー上陸作戦で最も激戦となった場所。英兵、米兵、カナダ兵、オーストラリア兵、ニュージーランド兵など15万人が、早朝大挙してノルマンディー海岸を目指した、いわゆる史上最大の作戦の一部ということになる。
 最悪の激戦地となったのが、米軍3万人以上が上陸したいわゆるオマハ・ビーチなのだ。連合軍の総大将アイゼンハワーは、ノルウェー上陸や泳いでも渡れるドーバー海峡上陸をほのめかし、ヒトラーもドーバーを信じて疑わずドーバーシフトになっていた。
 敢えて言えば、ノルマンディー海岸は手薄であったのは間違いない。偶然ドイツの大部隊がノルマンディー海岸の中でもオマハ・ビーチ裏で演習中であったそうだ。アメリカ兵3万余が担当した地域であるが、全員が戦死した部隊もでるなど、オマハだけで1日で数千の死傷者がでた。
 だから北部エスタブリシュメントにとっても、オマハで失明したという黒人青年をむげにはできない。レイ・チャールズは子供の時失明しており、戦争にはいっていないのだが。
 あの日がまたやって来る。194466日のことだ。後から考えれば簡単なことでも、その時には苦渋の選択ということが多い。反対もあったが、雨と嵐の束の間のチャンスを利用したのが、アイゼンハワーという天才の判断となる。しかし、彼が考えたシナリオ通りに進んだ作戦は一つしかないようだ。
その他多くの作戦は想定外の展開となってしまった。その想定外は、俗にいう結果オーライかもしれないが、当事者たちは肝を冷やしたことであろう。肝を冷やすどころではなく死傷者が一日で数万人も出てしまったのが、Ddayということ。
 有名な想定外が二つ。空挺部隊を輸送機にのせて作戦予定地に降下するはずであったが、急ごしらえの操縦士たちで、極度に怖がり、本来であれば時速150キロ程度に減速すべきところを300キロで兵士を降下させてしまったのだ。というより、作戦地点を通過してしまうので降下せざるを得なかったのだろう。
 結果、空挺隊員は、四方八方に散らばって着地し、極端な例は海上に落ちて亡くなった兵もいた。この珍事が吉となり、ドイツ軍は、攻撃の的がその夜どこにあったのか、見当をつけることができなかったというのだ。
 もう一つ、九十九里浜がノルマンディーなら、千葉市に当たる町がCAEN(カン)だ。この大学街を一日で取ると豪語した英国軍のトップ、モントゴメリー将軍は何日たっても攻略できない。てこずったおかげで近在のドイツ軍がすべてCAENに集中してしまったようだ。
いいとこ取りのフランス軍
 その間隙をぬって主力の米軍は最速でパリに至ってしまったのだ。2カ月と数日でパリを窺うこととなった。ここまで、フランス解放の主役であるべきドゴール率いるフランス軍の話は聞かない。しかし、大政治家ドゴールだ。手をこまねいていたわけではない。アイゼンハワーを締め上げて、パリ入りはフランス軍が中心となることを約束させていた。
パリのドゴール像(iStock
 825日にパリ入り、27日には、ドゴールは凱旋門からシャンゼリゼをパレードしてしまったのだ。その際、外国の特派員にたくさんの写真を取らせて世界中にばらまかせたのは有名な話だ。フランス軍がDdayからこの日までにとったリスクは、パリに残るドイツ軍の狙撃兵からの弾丸だけだったともいえる。
史上最大の激戦の日、あの海岸にフランス兵を探したが見えなかった。そもそも、チャーチルもアイゼンハワーも66日の件はドゴールに伝えていなかった。したがって、フランス軍は、動員されていないというべきだろう。
しかし、華であるパリ解放の日には、あたかもノルマンディーでドイツ軍を撃退したのは我らだという顔をしてシャンゼリゼを行進した。フランス国民もそれを求めていたのだろう。
ドイツの傀儡がいつの間にか戦勝国に
 その後ドゴールはフランス国家の合法性に心血を注ぎ、ドイツの傀儡政権であったフランスをいつの間にか戦勝国にしてしまった。そればかりか、国際連合ができるや否や常任理事国の地位を得ている。自らの手で独裁者ムッソリーニを排除したイタリアが敗戦国の地位に甘んじているのと比べると驚かざるをえない。
 その一年後、東京湾、米国戦艦ミズリー号上で行われた日本降伏の調印式には、フランスも、ちゃっかりやって来ている。さすがにドゴールは飛来できなかった。かわりに、ドゴールが右を向けと言ったら一日でも右を向いているといわれた忠実な副官ルクレルク将軍がフランスを代表して調印式に出ている。
あがってしまったのか、英語中心の中で戸惑ったのか、調印文書は一行間違えてサインし、その後ただちに帰国したと聞いている。ルクレルクも英雄の一人でパリに彼の名を付けた大通りもある。

 日本にもいませんか、大政治家ドゴールのような人。戦わずして勝つ人。
《維新嵐》 安倍晋三氏などどうでしょうか?戦後のワンマン宰相吉田茂氏は「大政治家」といえるでしょうか?織田信長や豊臣秀吉、徳川家康はまちがいなくいえそうですがね。
坂本龍馬は暗殺されなければ「大政治家」として大成していたかもしれません。しかし龍馬の本意ではないでしょうね。

【月刊正論】北朝鮮からの拉致邦人救出論議について

これで横田めぐみさんを救えるか
特殊部隊の本懐・邦人救出論議に思う

伊藤祐靖(いとう・すけやす)氏 昭和39年、茨城県出身。日本体育大学卒業後、海上自衛隊に二等海士で入隊。「能登半島沖不審船事件」の際は護衛艦「みょうこう」航海長として不審船を追跡。この経験から海上自衛隊の特殊部隊・特別警備隊創設に携わる。同隊初代先任小隊長。平成19年退職(二等海佐)。予備役ブルーリボンの会幹事長。

これまで中東に住んだことはないが、私の知る限り、中東・イスラム圏の人の多くは、日本人を、我々の想像以上に信頼し、尊敬の念で見ている。中東の人からその話を聞いたときは、驚き、そして、なんとも誇らしい気持ちになった。
 彼らが日本を尊敬する理由は、超大国ロシアに戦いを挑んだこと、そして勝ったこと、超大国アメリカと戦争をして、4年間戦ったこと、そして、その後驚異的な復興を遂げ、周辺国ばかりでなく、発展途上国に多額の支援をしていること。更に、宗教的にも何ら衝突はなく、何より、ヨーロッパ、アメリカの人々とは違い、妙な下心がなくて信頼できる、ということだった。だから、「中東のゴタゴタは、第一次世界大戦以来、積年の恨みがある白人が絡むと絶対に解決できないが、日本人が介入すればできるかもしれない」とも言っていた。
 この国にしかできない国際貢献に対する義務、というものも強く感じた。そして、彼らが日本を語る時、一番時間をかけ、熱く語るのは、ロシア、アメリカという超大国に挑んだということだ。国家としてギャンブルをしたわけではない。無謀国家なわけでもない、ましてや好戦的過激国家でもない。彼らが日本を尊敬する核の部分は、日本が“国家として消滅する”ことを覚悟してまで、正しいと信じる道を貫こうとした点なのだ。それは、現在の日本に最も欠けているものだと思っている。
 日本の外交といえば、人道支援を基軸とした平和外交をポリシーとしている。一部の人は平和憲法の影響と言うが、私は建国の理念“八紘一宇”の思想が生きているからだと思っている。しかし、今年1月のカイロにおける安倍首相の演説「イスラム国と戦う、周辺各国に支援を約束する」を聞いた時は、建国の理念との隔たりを感じ、強烈な違和感を覚えた。そして、今から約25年前のある出来事を思い出した。この時点では、それから僅か3日後、2名の日本人拉致映像が公開されるとは想像だにしていなかった。

米空母の上で気付いた祖国の姿

 私は、日本体育大学を卒業後、海上自衛隊に2等兵として入隊し、艦艇乗組員として勤務した。その後幹部になったが、20年在籍し、前半を艦艇乗組幹部、後半を特殊部隊先任士官として勤務した。それは幹部になって3年目、まだ26歳だった時の事である。あまり英語の得意でない指揮官の通訳のような立場でアメリカ海軍の空母に約1カ月乗艦した。8000人を上回る乗艦者の中には、軍服を着ていない人や女性も居た。学者や輸送航空機の搭乗員である。艦内にはジムはもちろん、教会、図書館、裁判所、刑務所、病院、郵便局、スーパーマーケット、2つの士官用食堂、3つの下士官用食堂などあらゆるものがあり、ないものといえば酒を飲ませるところくらいであった。
 私はいわゆる中尉で、指定された部屋は、3人部屋だった。白人で西部劇が大好きな大尉と黒人で主に艦橋で勤務している中尉がルームメイトだった。
 階級も勤務場所も同じで、年齢も私の一つ下だった黒人とはすぐに仲がよくなった。ところが、ひょんなことがきっかけで、彼と口論になった。

《中尉 日本人は、黒人の歴史を知らないからな、お前のおじいさんは人間から生まれただろ?
 私  ああ、当たり前じゃないか。お前のじいさんは違うのか?
 中尉 俺のじいさんは人間から生まれたんじゃない》
 お互いけんか腰になってきていたので、アメリカ人特有のジョークで場を和ますつもりなのかと思い、問い返した。
《私  へ~じゃあ、何から生まれたんだ?
 中尉 俺のじいさんは、人間じゃなくて奴隷から生まれたんだ。鍵ってものは内側から自分で閉めるもんじゃない。外側から白人に閉められるもんだ。食べたいもの? 好き嫌い? そんなものない。白人から与えられる餌を食べるんだ!
 私  …………》
 絶句した。「鍵は、外から閉められるもの」「与えられる餌」あまりにも衝撃的だった。
《中尉 奴隷解放っていつだか知ってるか?
 私  知らない》
 けんか腰で、大声でしゃべっていた私は、急に声が小さくなっていた……。
《中尉 日本人は知らなくてもいいんだ。関係ないからな。でも、俺が生まれる100年前だ》
 そうか、こいつは俺の一つ下だから、生まれる100年前といえば1865年。明治維新のほんの3年前か…。
《私  そんなに最近なのか……
 中尉 でも、俺は海軍中尉だ。白人に命令をしている
 私  お前のじいさんは、自分の孫が白人に命令していることを知ってるのか?
 中尉 知ってる
 私  どうなんだ? 奴隷から生まれた自分の孫は白人に命令をしてるって?
 中尉 夢だ。そのうち、黒人の大統領だって出るかもしれない》
 アメリカ合衆国初の黒人大統領バラク・オバマが誕生したのは、この18年後だった。
 その次の日、昼飯を食べていると仲良しのネイティブアメリカン(以下NA)が私の隣に座ってきた。食事をしながら喋っていたら、ふいに問い掛けてきた。
《NA お前は、何で奴(同部屋の黒人)と一緒にいるんだ?
 私  ルームメイトだし、ランニングメイトだからな(※ランニングメイトとは、年齢も階級も近い世話役を示す俗語)
NA そんなに一緒じゃなくたっていいだろ?
 私  ん?
 NA 奴は、黒人だぞ!》
 前日、奴隷の話を聞いて衝撃を受けていた私は、似合わない正義感が湧いてきた。
《私  黒人だから何だ!
 NA あいつは、黒人だ。黒人っていうのはなあ、生きていたいからって奴隷になったような奴らなんだぞ
 私  ……
 NA 俺たち黄色人種は、そんなことしない。日本人だってしないだろ
 私  しない……
 NA そうだろ。誇りがあるんだ。ネイティブアメリカンは、奴隷になることより、死ぬまで戦うことを選んだ。だからほとんど生き残ってない。日本人だって、屈服することよりも死ぬまで戦うことを選んだじゃないか
 私  ああ
 NA マッカーサーは逃げたけど、イオージマ、サイパン、日本兵は全員死ぬまで戦った。カミカゼはアメリカ海軍の空母に突っ込んでいった。爆弾を身体に括り付けた兵士が戦車の下に飛び込んだ。本土を焼かれても焼かれても戦い続けた。原爆。それも2発もだぞ、落とされて、国土を民間人もろとも焼き尽くされ、弾も銃も無くなると女性が焼け死んでいる赤ん坊を背負って竹槍で向かってきた
 私  わかってる……》

 たまらず、止めた。予想だにしない展開に混乱した。黒人を差別するのかと思ったら、確かに差別だったが、切り口が違った。生きていたいがために戦いを放棄する奴らだと言いだし、大東亜戦争での日本人の戦い方を引き合いに出した。日本人は、命より大切な誇りの為に戦った、だからああいう戦い方になるんだ、と言った。
《NA その国の戦士のお前が、何で黒人と仲良くなれるんだ!》
 彼はどんどん興奮して、けんか腰になっていった。
 前日、黒人から奴隷の話を聞いていなかったら間違いなく意気投合し、以後黒人を忌み嫌いしゃべらなくなったと思う。しかし、奴隷の話を聞いた翌日に、黒人を貶むような言葉を聞き流す気にはなれなかった。
《私  お前は、黒人の悪口言ってるけど、その黒人と同じアメリカ海軍に属して、同じ空母に乗ってるじゃね~か。インチキアメリカ人なんかやってね~で、独立戦争しろ》
 頭が混乱して、喋るのが面倒になってきた私は、コブシの喧嘩に持ち込む気満々で煽った。ところが、さっきまで興奮してけんか腰だった彼は急にうつむいた。
《NA ……そうなんだ……》

続きは月刊正論20154月号でお読みください


第31回正論大賞受賞記念東京講演会「日米同盟はいかに中国に立ち向かうのか」 ジェームス・E・アワー氏

第31回正論大賞受賞記念東京講演会
J・アワー氏受賞記念講演詳報(和訳)
「日米同盟はいかに中国に立ち向かうのか」
2016.3.21 12:00更新 http://www.sankei.com/politics/news/160321/plt1603210002-n1.html

米ヴァンダービルト大名誉教授ジェームス・E・アワー氏


 第31回「正論大賞」(フジサンケイグループ主催)に輝いた米ヴァンダービルト大学名誉教授のジェームス・E・アワー氏(74)の受賞記念東京講演会が、東京都千代田区の日本プレスセンタービルで開かれた。講演内容の詳細は以下の通り。

 本日お話したい内容は、インド太平洋地域において戦争を抑止し、平和と安全を維持する上で、日本の海上自衛隊と米国海軍の関係がいかに重要かという話しです。
 米国では、あるテーマについて強い意見をもった話し手がスピーチをする際に、あるいは金銭的取引に関わっている人が意見や利害関係をもっていて、聞き手や相手がその事実を知らない場合は、その意見や利害関係を事前に知らせることが適切であり、金銭が関わる場合には法的要件となっています。これが明確に、完全になされた時に「全面開示」となるのです。
 私はこのテーマに関して強い意見をもっているため、つまり米国海軍と海上自衛隊の関係は有益だと強く思っておりますので、スピーチのはじめにこの事実を全面開示させていただこうと思います。
 父の次に、私の人生で最も偉大だと思う人物を3人あげるとしたら、2人は海上自衛隊の幕僚長で、1人が米国海軍の大将です。
2人の日本人ですが、内田一臣(かずとみ)氏と中村悌次(ていじ)氏です。両者とも1945年には旧帝国海軍の下級将校でしたが、70年代には海上自衛隊を牽引する存在でした。もし生まれたのが20年、30年早ければ加藤友三郎、山梨勝之進(かつのしん)、米内光政(よない・みつまさ)と同じぐらい高名な海軍軍人になっていたであろうことは疑いありません。内田幕僚長も中村幕僚長も、日本の海上自衛隊の最も重要な役割は米国海軍との密接な連携を維持することであると主張していました。
 もうひとり、米国海軍のアーレイ・バーク大将は第二次世界大戦の英雄でした。太平洋戦争の立役者でしたが、戦後の海上自衛隊の設計と指導は旧帝国海軍の将校が行うべきと提唱するようになりました。中曽根康弘首相は、彼自身も元海軍将校だったわけですが、内田幕僚長とアイゼンハウワー大統領が、個人的にバーク大将が米国海軍を率いるよう任命したこと、数多くの先輩大将を飛び越えての任命だったことに深く感謝していたと聞きました。
 内田幕僚長のカラー写真がありますが、今画面に映しております。またバーク大将の写真もあります。私の宝物の一つですが、ご覧の通り中村幕僚長の写真は白黒のみです。カラー写真をくださいと懇願したのですが、断固拒否されました。内田幕僚長とバーク大将の写真と並べて見せられたら恥ずかしいというのです。まさにその通りで、そのように使いたかったのですが、ずっと私に対して接してくださった親切で寛大な態度のままに、カラー写真に関しては断られました。私がお会いできた人物の中でももっとも尊敬に値する人物のひとりです。
 もう1枚、写真をご覧いただきます。私の長男で悌一郎(ていいちろう)と言いますが、内田幕僚長と中村幕僚長の名前から1文字ずついただいてつけた名前です。悌一郎は東京生まれで、この2人にも会っています。2人は仏教徒でしたが、悌一郎が3歳のときのキリスト洗礼式が、1983年に上智大学のイグナチオ協会で行われたのですが、そのときに来てくれました。その1カ月後、妻のジュディと私が彼を正式に養子に迎え、そのすぐ後に一緒にアメリカで生活を始めました。悌ちゃんには名前をもらった人物を一生忘れないで欲しかったので、12歳の時に日本につれてきました。画面の写真が中村悌次氏と悌 一郎・アワーがパーティで一緒に撮ったものです。撮影したのは1995年、東京でした。ようやく中村幕僚長のカラー写真が手に入ったわけです。
 たまたま悌一郎の長男、ノア・アワーは半分日本人の血が流れてるわけですが、2010年7月28日にメリーランド州ボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学病院で生まれました。ノアの誕生の時間は、ちょうど中村悌次氏のお通夜の数時間後で、お葬式の数時間前でした。これは偶然だったと思っていますが、そのとき海上自衛隊の幹部学校時代の同級生が、「ノア・アワーは中村悌次の生まれ変わりだ、つまりは輪廻転生だ」と言っていました。
 私が海上自衛隊に特別な思い入れがあるということを、全面開示しようと思いましてこのようなお話をさせていただいたわけですが、次に日米の戦後の海軍と海上自衛隊の間の重要性をよく理解している3人の人物をご紹介したいと思います。オランダ人の教授、ニコラス・スパイクマン、日本の帝国海軍大佐、大井篤(あつし)、そしてアメリカの外交官、トーマス・シュースミスです。聞いたことがない方もいらっしゃるかもしれません。
 イエール大学教授のスパイクマン氏は1942年、米国の戦略地政学に関する重要な本を出版しました。当時ソ連はアメリカの同盟国で、日本とアメリカは戦争をしていましたが、スパイクマン氏の本はソ連の覇権による危険性を警告しており、アジア太平洋地域で良い力関係を維持する唯一の方法は日本と同盟を組むことだと勧告しているのです。
 スパイクマン氏がその本を書いた1942年、日本は西太平洋で覇権を握り、米国が東太平洋を支配していました。スパイクマン氏は太平洋での不均衡の危険性を明確に説明し、ソ連の覇権を阻止するためには米国と日本が海上で同盟関係を結ぶことだと正確に予見したのです。当時は、そのような考えはアメリカ人にとっては考えも及ばない内容でした。
 1945年9月、陸軍省から陸軍大佐が、海軍省から海軍大佐が第一生命ビルのGHQのマッカーサー将軍に召喚されました。伝えられるところによれば、陸軍大佐はアメリカの陸軍大佐に厳しく問いただされる間、立ったままでなければいけなかったようですが、日本の海軍大佐の大井篤は座るように促され、タバコももらって、アメリカ海軍大佐と会話を楽しんだというのです。戦時中に大井大佐が行ったことをアメリカも聞きたくて仕方がなかったそうなのです。
大井大佐は1945年に現役を退きましたが、元帝国海軍中将、保科善四郎(ほしな・ぜんしろう)氏が率いる研究会のメンバーになりました。保科氏は戦前にイエール大学の大学院に行き、1950年からは当時のアレーバーク少将と、野村吉三郎(のむら・きちざぶろう)大将の代表として、密接に協力したのです。野村氏は1941年に駐米大使としてワシントンDCにいて、多くの米国海軍の知り合いがいました。
 私はバーク大将に1970年にインタビューしました。彼は1945年には嫌日家でしたが、野村大将との出会いにより、1950年にはそれが友情と尊敬の念に変わっていたと言いました。 
 朝鮮戦争が勃発した直後、バーク氏はターナー・ジョイ中将の特別顧問に任命されました。米国第七艦隊の司令官で、マッカーサー将軍の下ではもっとも高い位の海軍将校です。バーク氏が吉田首相に、残っている帝国海軍の掃海艇を1950年に北朝鮮沿岸に覇権して、東海岸のウォンサンにおけるアメリカの水陸機動隊の上陸を可能にしてほしいと要請しました。その直後、バーク氏は最年少で海軍作戦部長に任命されました。米国海軍の最高階級です。日本の戦略地政学的状況を野村大将から聞き、ウォンサンにて日本のプロフェッショナルな海軍技術が発揮されるのを見てから、バーク氏は米国国防総省の中でも戦後の海上警備隊の最大の推奨者になったのです。
 日米同盟を生かして、海上での平和と安定を太平洋で維持するという1942年に示されたスパイクマン教授の考え方や、大井大佐の戦略的な考えは、野村大将とバーク大将の戦後の海上警備隊の話し合いに多大な影響を与えたのです。
トーマス・シュースミス氏が70年代半ばに東京の米国大使館の首席公使(DCM)だったときに、日本にいる米国政府の軍幹部 や幹部にスピーチをした際、日米関係は全体的に大変良い状態にあるが、米国海軍と海上自衛隊との間の関係の良さには勝てないと述べたそうです。そして、政府幹部達は日米関係を、海軍と海自の関係と同じぐらい良好にすることが必要だと助言しました。
 なぜ戦後の海上における同盟関係は、それほどまでに短期間で深まることができたのでしょうか?
 占領時代が終わったときに、陸上警備隊と海上警備隊が設立されました。1954年に名前が代わり、陸上、海上自衛隊となりました。また航空自衛隊も追加されました。しかし当初から、米国海軍と海上自衛隊を除いては、米国軍と日本の戦後の自衛隊との関係はそこまで近くありませんでした。1970年代に貿易摩擦が復興を遂げる日本とアメリカの間で熾烈を極めましたが、海軍と海自間の軍事関係はますます友好的なものになり、両側の幹部たちはソ連の冷戦時の軍事脅威を理解していました。
 日本の一般人は日米の安全保障関係を理解していましたが、アメリカが日本を本当に助けてくれるのか、もし例えば日本の大都市が核兵器の脅威にさらされたときに助けに来てくれるのかという疑問がありました。米国指導者たちは「米国の核の傘には穴がありませんよ」と、重要な声明文や他のコミュニケーションにおいても、日本を安心させようとしてきました。しかし、ある世論調査では、アメリカがロサンゼルスを危険に晒しても大阪を助けに来てくれると信じていた日本人は半数未満でした。
 そのような疑いがどんどん小さくなっていったのは、1973年に米国海軍の巨大空母 ミッドウエイが母港をカリフォルニアのサンディエゴから日本の横須賀に移したときでした。アメリカ以外の港を母港にした航空母艦は初めてでした。ミッドウエイが横須賀に到着したとき、一部の米国海軍将校は5年も持たないであろうと考えていました。複雑な艦船でしたし、米国の造船所の労働者による定期メンテナンスも受けられなくなるわけですから。
 しかしながら、横須賀の修理施設における日本政府と民間の造船所のエンジニアたちの細かく優れた修理技術によって、ミッドウエイは熟練の技によって良い状態に整備され、ほぼ20年近くも横須賀を拠点として米国第7艦隊で活躍したのです。全米国海軍の大西洋、太平洋艦隊の中でも、即応性では船の年数に関わらず、常にナンバーワンを維持していました。
 ここで少々前に語られたことのないエピソードをご紹介したいと思います。元米国海兵隊員の、もと米国上院多数党院内総務、そしてその後に駐日大使を務めたマイク・マンスフィールド氏と、ミッドウエイの話です。1979年、イランでの状況が大変不安定になる前に、テヘランの米国大使館がテロリストに占拠された直後でした。ミッドウエイは緊急時にアラブ海の沖合でスタンバイしていたのです。それで状況は落ち着きました。これは日本もアメリカも強くのぞんでいたことでした。ミッドウエイは約3カ月ほど、通常の海上での任務が30~60日間であることを考えると、1カ月も長く攻撃準備状態だったのです。
 たまたま横須賀の現職市長が再選を目指しており、彼の再選の確率はかなり高かったのですが、ミッドウエイがインド洋での延長任務を終えて帰還する3週間後に選挙が予定されていました。
 外務省の若い職員から東京の米国大使館に電話がありまして、「非公式に」ミッドウエイが横須賀の市長選が終わるまであと3週間から1カ月ほど、海上で待機できないか、と問い合わせたのです。この要請はマンスフィールド大使にも伝わりました。マンスフィールド大使は日米同盟を、まさに世界で最も重要な同盟関係と提唱していることで有名でした。
 マンスフィールド大使はミッドウエイのクルーとその横須賀に住む家族たちがあと1カ月も離れ離れでいることなどあり得ないと驚愕し、その電話の相手に、日本が他の新たな安全保障パートナー国を選ぶ準備があるのであれば、そのような要請を受け入れるかもしれないと伝えるよういったのです。
 マンスフィールド大使の回答を聞きつけた日本の高官は直ちに米国のカウンターパートに、そのような電話があったこと自体を忘れてほしいと伝えました。米国のオフィサーは同意しましたが、そのあと2回も外務省から同じ日のうちに電話があり、そのような電話が大使館にあった事実を忘れてほしいと繰り返されたそうです。
 結局、椎名素夫衆議院議員、日米同盟の重要性を説いてくださる人物ですが、その椎名議員とほかの自民党の議員たちも横須賀へ何十本ものビールをもって、ミッドウエイの予定通りの帰還を出迎えにいったのでした。その1カ月後、選挙がおこなわれ、こちらも予定通り、現職の市長が再選を果たしました。
 先ほどの話に戻りますが、冷戦のはじめの20年間は、ソ連のほとんどの通常兵器、および核兵器はヨーロッパ側のロシアに配備されていましたが、1962年のキューバ危機にて威信を失ったソ連は1970年代、海軍能力の増強をはじめました。アジアに配備された軍も含めてです。特に日本海を隔てて日本本土に大変近いウラジオストクに配備された太平洋艦隊も増強されたのです。1970年代の終わりには、ソ連は太平洋艦隊のみで約100隻の潜水艦をもっていました。そのうちの40%は原子力潜水艦で大陸間弾道ミサイルを搭載していました。
 その脅威は想像を絶するものでした。米国海軍は200機もの高度な対潜水艦P3哨戒機もっていましたが、世界中に責任があったため、アメリカは約25機しか西太平洋に配備することができませんでした。ところが日米の安全保障や太平洋の安全保証にとって大変危険な状況になりうる状況だったのが回避されたのです。というのも1980年代を通して、日本が海上自衛隊の活動を拡大することができて、100機の高技術の対潜水艦P3哨戒機を配備したからです。
 事実上、カムチャツカ半島のウラジオストクかペトロパヴロフスクを出発して日本海や太平洋に出ていたすべてのソ連製潜水艦は、日本かアメリカのP3によって探知、監視されていたのです。P3のコンピューターが互いにリアルタイムで、暗号化されたデータリンクコミュニケーションをやり取りしていたのです。
 探知されれば、ソ連潜水艦は司令部にたいして、日本かアメリ8カの哨戒機によって場所を特定されたと報告します。日本のP3の数が多かったので、大方のソ連潜水艦は海上自衛隊の航空隊によって監視されました。これらの探知は、ソ連の軍事計画を複雑にしました。というのもソ連の司令部は、潜水艦の場所が特定されているのであれば、アメリカはもし冷戦が熱くなってしまった場合、潜水艦を沈める力をもっているからです。ソ連は巨額の資金を投じて潜水艦隊をつくったのですが、期待された政治的優位性は得られませんでした。日本の海自とアメリカ海軍の航空隊による大変効果的な監視行動のおかげでです。
 シュースミス公使も1970年代に語っていたように、全体の日米関係は強固なものでしたが、海自と海軍との間の切れ目のない協力関係ほどは良好でも重要でもなかった、と私は思います。1990年代にはソ連が崩壊し、太平洋における日本の海自とアメリカ海軍における抑止力による勝利が決まった。この勝利が可能となったのは、ソ連は多数の潜水艦にもかかわらず、米国海軍そして海自が西太平洋を掌握し続けたからです。偉大な日本の戦略家であった、元駐タイ大使の故岡崎久彦氏は、抑止力による海上での勝利を「知られざる日米サクセスストーリー」と呼んでいます。
 ロシアと中国の海軍を主な列島線をコントロールすることによって封じ込めるという考え方を初めて提唱したのは、アメリカの外交官(元国務長官)、ジョン・フォスター・ダレス氏で、1951年のことでした。しかしその当時はそれまで注目されませんでした。
 画面の地図をごらんください。冷戦時代に、海上自衛隊と米国第7艦隊が地政学的優位にあったということがわかります。
 ソ連の潜水艦は津軽、宗谷、あるいは対馬海峡を通らなければ太平洋に出られなかったのです。そして日本とアメリカの対潜哨戒機が、潜水艦の動きを大変効果的に探知、監視していました。実際、先ほどもいいましたが、ソ連は潜水艦による攻撃を抑止されていた、というのも潜水艦の位置がリアルタイムで正確に把握されていたからです。
 北東アジアの地理的環境、および海上自衛隊と米国海軍のP3対潜哨戒機が日本本土と沖縄の基地に配備されていたため、ソ連の海軍は事実上封じ込められていたようでした。ソ連の太平洋艦隊を哨戒、監視することが極めて効果的で、ソ連政府が北西太平洋のシーレーンを支配するのを防ぐことができたわけです。実際に開戦には至らず、ソ連の潜水艦、あるいは水上艦船は日本海やそれ以外の地域で活動することを阻止するケースはありませんでした。このようにして、封じ込められたというよりは、大陸ソ連の太平洋艦隊は地理的に不利な状況にあったと言った方が正確かもしれません。
 今日、中国政府は、日本とアメリカが中国を封じ込めようとしていると批判しています。しかしこの主張も間違っています。中国は地理的に不利な状況にあります。これは冷戦時のソ連太平洋艦隊がそうであったようにです。アメリカ海軍と日本の海自は、ソ連の潜水艦の脆弱性を証明することによってソ連の太平洋艦隊が政治的優位に立つのを抑止することで勝利したのです。ここで問題になるのは、では日本とアメリカは同様に、中国の攻撃的な戦争行為を同じように抑止することができるのであろうか、ということです。
 画面の地図で示しているように、第一列島線は九州から南西にのびて、南西諸島、台湾、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ベトナムの東海岸で終わります。第二列島線は本州の中心からボニン諸島、マリアナ諸島、キャロライン諸島からニューギニアとのびています。
 中国本土が過去の華夷秩序を復活させたいと願っていることは疑いようもないのですが、地理的にも中国の行動は 覇権を握るのと反対の結果を生んでいます。近接した日本、台湾、フィリピン、ベトナム、インドネシア、オーストラリア、インドといった全ての国が、中国の国際法違反である攻撃的行動や主張に、控え目としても懸念を表明しているのです。
今は戦争をしていないので、中国は東シナ海でも南シナ海でもそれ以外でも活動できます。実際、経済繁栄のために中国はエネルギー資源や原材料を輸入して、完成品を船で輸出しなければなりません。しかし、南太平洋の商業活動、軍事活動を支配するというよりは、中国の地理は不利なのです。太平洋における主要な大国、日本、アメリカ、フィリピン、ベトナム、オーストラリア、台湾、インドが、中国による台湾や尖閣諸島や紛争地域の武力支配、そして南シナ海での航行の自由の制限あるいは禁止という国際法違反をいわれもなく許す、などということがない限りです。
 日本の九州、沖縄にある基地は第一列島線の北部に位置しています。2014年、アメリカとフィリピンは防衛協力強化協定の交渉で、アメリカ軍のフィリピンでの活動が延長されることになりました。この合意は2016年1月、フィリピンの最高裁判所でも合憲と判断されました。似たようにアメリカと日本はベトナムと合意し、ベトナム基地からの艦船の立ち寄りや空軍作戦を許可されるようになりましたし、今年の1月には中谷元防衛大臣が日本のP3哨戒機がソマリアの海賊対処活動から帰還する際にフィリピンに立ち寄ると説明しました。
 またほんの2週間前、2月22日には、米第7艦隊司令官のジョセフ・アーコイン中将がシドニーでの会見で、中国が領海と主張している南シナ海において、オーストラリアに監視活動をしてほしいと発言しました。もちろん決断はオーストラリア政府に委ねますが、アメリカだけでなく、オーストラリアを含む他国も中国の主張に異を唱えるべきだと主張しました。
 2015年11月19日、マニラで開催されたAPEC首脳会談で、安倍晋三首相は南シナ海に置ける米国の監視活動を支持すると表明し、オバマ大統領に対して同地域で自衛隊が活動を行う可能性を検討するつもりがあると示唆しました。中谷防衛大臣も菅義偉官房長官もその後、現在そのような計画はないと強調しましたが、首相付きの最高軍事顧問、河野克俊統合幕僚長、そして自衛艦隊司令官である重岡康弘海将が公の場で、海上自衛隊は米国第7艦隊と南シナ海で活動することができると述べました。これは中国側も知っているはずです。
 もし日本の海上自衛隊と米国海軍が、例えば、中国が武力の行使を始めた場合、第一列島線内の中国側の立ち入りを拒否し、第一列島線の海域、空域を守り、列島線外の海および海域を支配する能力があるのだと示せば、中国の違法な侵攻に対する抑止力となるでしょう。これは冷戦時にソ連の侵攻を抑止した日米同盟よりも力強いかもしれません。
 直ちに必要とされているのは、アメリカ主導の太平洋における戦略で、中国の近隣諸国が心から望むような内容です。しかし私が思うに、残念ながら現在はリーダーシップが欠如していて、そのような戦略はありません。これは私だけの意見ではありません。詳細にわたった、2016年1月の下院議会から要請された報告書の機密扱いでない部分によりますと、超党派で非政治的なワシントンDCの戦略国際問題研究所(CSIS)が、米国主導の太平洋戦略の絶対的必要性について指摘しています。2011年にオバマ大統領が発表したアジア回帰を超えた戦略が必要だというのです。
 そのような戦略の設計はそこまで早く進んでいませんが、実際、私が思うに、もっと早く作られるべきだと思うのですが、でも手遅れでもないのです。中国が不平をいうのは、日本とアメリカの軍事能力の存在を認識しているからです。そして日本とアメリカがそれぞれ海自と海軍を強化する手はずを踏めば、信頼できる抑止力の可能性がより現実のものとなるのです。
 もし日米が必要以上のことをやっても、危険ではありません。でも少なすぎたり、あるいは中国が軍事行動に出た際にアメリカと日本が行動に出るという信憑性が明確に示されなければ、中国政府は軍事行動によって覇権を握る試みにでるかもしれません。
 65年前に政権を取って以来、中国共産党は台湾を必要であれば軍事力によって併合するということを優先課題に据えてきました。多くの学者たちが指摘するのは、日本は台湾から撤退するよう命令されましたが、台湾の地位は法的に決定されたことはありませんでした。1950年以来、米国の民主党および共和党の大統領は米国第7艦隊を派遣して中国共産党による台湾の乗っ取りを阻止すると宣言してきましたが、日本も米国政府も中国と台湾の間の緊張感を平和的に解決することを呼びかけてきました。
 台湾に住む大多数の人々は少なくとも事実上の中国本土からの独立を希望するとしていますが、台湾政府は何かしらの平和的、経済的統合を中国本土の政府と受け入れるかもしれないという考えもあります。中国政府が共産主義であるにもかかわらずです。しかしながら、これまでの民主主義の繁栄があり、2千4百万人の台湾人としてのアイデンティティがより意識され、そして香港、チベット、マカオ、東シナ海、南シナ海での中国の行動もマイナスに動き、2016年1月の台湾大統領選挙および議会選挙において劇的な、台湾人よりの民主的な勝利につながったのです。この選挙結果の意味合いと戦略的意味は非常に大きいと私は思います。
 次期大統領に選ばれた蔡英文(さい・えいぶん)は独立を宣言しないように慎重になるでしょう、そのため中国政府が軍事行動をおこす理由がないわけです。2016年1月の選挙は、明らかに現在の大多数の台湾人は民主主義、法の支配の下にありたいという結果なのです。中国政府のもとや、65年間以上享受してきた事実上の独立を放棄してしまうような台湾政権のもとでは生活したくはないのです。
 この過去20年の間、台湾人は国の総統は民主的に選出できることを証明してきました。2016年の選挙結果が、自決権を行使したいという意思を最も明確に表明した出来事です。日本もアメリカも台湾とともに、最近の目覚ましい選挙結果を祝福してほしいのです。民主主義は台湾でも日本でも健在なアジアの価値観なのだと証明したのですから。
 台湾が初めて自由選挙によって大統領を選ぼうと試みたのは、20年前の今月だったことをぜひとも思い出してください。1996年の3月8日から15日まで、中国の人民解放軍が弾道ミサイルを発射して、台湾の基隆沖海域(キールン)と高雄沖に着弾したのです。この行動は台湾の選挙民を威嚇する行為でした。中国政府はその動きを、「国土を分断する試み」とレッテルを張っていました。ちょうど20年前の昨日、3月9日、ビルクリントン大統領が中国の威嚇に対してミッドウェイ号の後継母艦である空母インディペンス号、を横須賀から派遣しました。その数日後、原子力空母 ニミッツをペルシャ湾から台湾の沖合に派遣しました。中国は3月15日にミサイル発射をやめ、李登輝が3月23日、自由選挙によって無事に選出されました。
 唯一残念なのは、米国政府が日本に海上自衛隊の駆逐艦を2、3隻、インディペンスの護衛として派遣するように要請しなかったことです。村山富市首相は社会党でしたから、1996年の日本政府に協力を要請するということは検討しなかったのかもしれません。でももし2013年の安全保障戦略、2014年の集団的自衛権の限定的行使、2015年の安保法制が完全に施行されれば、そのような積極的なオプションが将来の緊急事態には可能になるかもしれません。中国側の不満はかならずや1996年よりも高まるでしょうが、そのような積極的な日本の行動が抑止力を高め、日本に有利になるのです。
 今年、私は75歳になります。日本海軍の言葉では、OBになるわけです。4人の英雄について、スピーチのはじめにお話しました、内田幕僚長、中村幕僚長、バーク大将、そして私の父は、皆他界しました。私も米国政府の仕事を引退して四半世紀が経ちます。ほとんどの人たちは、大学教授のいうことはあまり真剣に捉えないべきだと知ってくれています。というのも何をいっても責任はないわけですから、あまり信憑性がないわけです。
 OBとしての私の講演のなかで、日本の海上自衛隊と米国海軍との協力体制が、冷戦時の日米にとって大変有益であったということを話しました。1988年から、私は学界におりますので、現役の自衛隊幹部や米国海軍幹部と直接仕事をしているということはありません。でも文献やスピーチ、個人的な知り合いとして知り得た彼らの知性、先見の明、そして愛国心には大変励まされています。
 私は、海自と海軍が中国との戦争を抑止するという一つの戦略の可能性を示唆しました。これよりもよい戦略があるかもしれませんし、もしあるのであれば安心しますが、現在はそのような戦略がないのではと心配しております。これは2016年1月に米国議会へのCSISの報告書でも指摘があった通りです。
 日本の海上自衛隊は現在、武居智久幕僚長が率いており、米国太平洋艦隊の司令官はハリー・ハリス大将です。彼は私が政府での勤務を終えた後に居をうつしたテネシー州出身で、米国海軍軍人と日本人の母親のもとに生まれた方です。この2人の類稀な頭脳と能力をもった指導者が両国政府から十分な権限を与えられ、引き続き、大切な日米同盟を守り続けてもらえればと願ってやみません。
 彼らや、彼らの後継者達が、海自と海軍の関係を日米関係の最も重要な側面として推進することができれば、日米双方に有益であり、尖閣諸島での日本の主権は守られ続け、台湾の自治も守られ、南シナ海の航行の自由が守られ、紛争が平和的に解決されれば、21世紀もすべての国々、特にインド太平洋地域の国々にとって有益な状態が続くでしょう。(了)


※図版などは、原文にもありませんでしたが、特に掲載いたしませんでした。貴重な講演内容かと思います。この機会に一人でも多くの方々に目を通していただいて我が国の安全保障と「戦争」抑止」のために国民全体で問題意識がもてるようになれば幸いです。
 国にしろ地方にしろ政治を動かしているのは、草莽の一人一人の国民です。俺は私はよくわかんない、という風潮が強ければ、特定の政治思想をもった発言力の大きい方々や国の中枢でお仕事をされてみえる「優秀な」皆さん方にいいように政治を動かされるだけです。
 今の時代だからこそかつて吉田松陰先生がいわれた「必戦論」の精神が大切かと思います。
誰も事なかれに陥ることなく、国家を動かす当事者として政治に問題意識を持ち、政治に向き合っていきましょう。
 一番身近でわかりやすい政治への向き合い方は、選挙への投票です。AKB48の総選挙だけが選挙ではありません。またテレビでのニュース報道をこまめにみるとか国会中継を気にしてみるなども自分の政治リテラシー向上に有効です。政治討論番組などが「おもしろく」みられたら最高ですね。お笑いバラエティばかりでは、世の中のことはみえません。「草莽崛起」こそが民主主義の基本理念であろうと思います。くらしがいっこうに楽にならないのは、それぞれの働きが悪いわけではありません。政治が悪いのです。天皇陛下を敬い、天皇の下で立憲主義がなりたっているのがわが日本のあり方です。メディアや政治家、官僚の洗脳にそめられないようしっかり見識をもって政治とむきあっていきましょう。

2016年5月21日土曜日

【米中戦争の様相⑦】アメリカ海軍による南沙諸島への3回目のFON作戦を実施

米軍の南シナ海航行で中国がますます優位になる理由
中国に防衛力増強の口実を与えてしまっているFONOP
北村淳 2016.5.19(木)http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46862


米海軍が第3FONOPで派遣したウィリアム・P・ローレンス(出所:Wikimedia Commons

 アメリカ海軍太平洋艦隊は、2016510日、南沙諸島のファイアリークロス礁周辺12海里内海域に駆逐艦「ウィリアム・P・ローレンス」を派遣した。201510月の第1回目、そして今年(2016年)1月の第2回目に続く、第3回目となる「FONOP」(航行自由原則維持のための作戦)の実施である。
ほとんど効果がない散発的なFONOP
今回のFONOPの対象となったファイアリークロス礁は、中国が人工島を建設しており3000メートル級雨滑走路の運用も開始されている。そしてフィリピン、ベトナム、そして台湾も、この環礁に領有権を主張している。
 アメリカ政府によると、「ファイアリークロス礁の領有権を主張している国々のうち、中国、ベトナム、台湾は、ファイアリークロス礁周辺12海里に艦船を近づける場合には、事前にそれぞれの政府に通告するよう求めている。だが、そのような要求は国際海洋法に違反している」という。そこで、アメリカは「国際海洋法に反して自由航行原則を制限する主張に自制を求めるために、FONOPを実施した」ということである。
 つまり、今回のFONOPはファイアリークロス礁での中国による人工島建設や本格的航空基地に対する軍事的威嚇を加える意図は毛頭なく、またアメリカの伝統的な外交原則に遵ってファイアリークロス礁の領有権紛争に介入するものでもない、というのがホワイトハウスの建前である。
もちろん、いくらアメリカ政府がこのような声明を発したとはいえ、中国は「アメリカ軍艦は中国の法律(中国領海法)を踏みにじり、中国の領域に軍事的脅威を加え、南シナ海の安全と平和をかき乱す行為を繰り返した」と強く反発している。人民解放軍は戦闘機でアメリカ駆逐艦を威嚇し、軍艦で追尾を続けた。
このような、アメリカ側の建前としての政治的声明と、それに対する中国政府による反発は、散発的に行われている南シナ海でのFONOPで毎回繰り返されている“お決まり”のやり取りである。実質的に軍事的緊張が生じているわけではない。
 さして強い軍事的示威行動とは言えないFONOPを散発的に実施しても、中国が莫大な資金を投入して推し進めている人工島や3000メートル級滑走路、そして軍事基地群の建設にストップをかけることなどとうてい不可能である。そのことは当事者のアメリカ海軍はもとよりオバマ政権としても十二分に承知している。
 しかし、その程度のデモンストレーションしか軍事オプションとして選択できない点が、ホワイトハウスの対中姿勢を如実に示している。
中国に防衛力増強の口実を与えてしまっているFONOP
それだけではない。かつて圧倒的な軍事力を擁し“世界の警察官”として振る舞っていた当時のアメリカの論理に立脚したFONOPを、南シナ海というアメリカから遠く離れた中国の前庭のような海域で不用意に実施したため、中国側にさらなる戦力強化の口実を与えてしまった。
 第2回目のFONOPは、南沙諸島ではなく、西沙諸島(中国がベトナムから戦闘の末に奪取し、以後40年近くにわたって実効支配を続けている)のトリトン島沖12海里内海域をアメリカ駆逐艦が通航するという作戦であった。
 トリトン島自体には小規模な人民解放軍部隊しか駐屯していない。だが、トリトン島に近接している永興島には、軍事施設のみならず西沙諸島や南沙諸島を含む南シナ海を統治する三沙市政庁や商業漁業施設があり多くの民間人も居住している。そのため中国人民解放軍は、「西沙諸島に軍事的脅威を与えているアメリカ軍から永興島に居住している数多くの一般市民を防衛する必要がある」との理由で、永興島に地対空ミサイル部隊と地対艦ミサイル部隊を展開させてしまった。
 中国当局よれば、「自国領域とそこに居住している民間人を保護するために、やむを得ず“専守防衛的兵器”である地対艦ミサイルと地対空ミサイルを配備した」ということである。その結果、アメリカ軍は航空基地や海軍施設がある永興島の周辺上空に航空機を接近させることはもとより、永興島から280キロメートル圏内の海域に軍艦を派遣することすら、危険な状況になってしまった。
ますます“民間人の盾”を活用する中国
のような状況を自ら生み出してしまったにもかかわらず、再びアメリカはさして効果のない散発的FONOPをファイアリークロス礁に対して実施した。
 ファイアリークロス礁は、3000メートル級滑走路が設置されている人工島である。大規模な空港や港湾施設の完成も間近に迫っており、建設関係者や飛行場開設関係者など多くの民間人が居住している。そのため、再び中国人民解放軍は「中国固有の領土を防衛し、一般市民の生命財産を保護するため」に地対艦ミサイル部隊などを展開させることになるであろう。
 中国が7つの人工島すべてにおいて、軍事施設の建設と並行して、各種民間施設の設置を急いでいる状況は確認済みである(参考「中国が人工島に建設した滑走路、爆撃機も使用可能にhttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45748)。すでにいくつかの人工島には「南沙諸島周辺海域のナビゲーションの安全を図る」ためと称して巨大な灯台やレーダー施設などが誕生している。軍民共用の港湾施設にはクルーズシップが就航する計画も浮上している。

中国による人工島建設の状況

 このように南沙諸島人工島や西沙諸島に軍事基地と並行して民間施設が次から次へと建設されると、それに反比例するようにアメリカの軍事的介入手段は限定されていくことになる。いくら精密攻撃兵器を多数保有するアメリカ軍といえども、軍事施設と民間施設が混在している狭小な環礁を攻撃すれば、多数の民間人を殺傷することになる。そのため、現実的選択肢からは除外せざるをえないのだ。
 一方、中国人民解放軍は「民間人保護」を口実に、地対艦ミサイルや地対空ミサイルやレーダー施設をはじめとする“専守防衛兵器”の配備をそれらの島嶼に“堂々”と推し進めることになる。その結果、アメリカ艦艇や航空機は、FONOPのような非戦闘的作戦といえども“中国の島嶼群”に迂闊に接近することすらできなくなる。
 オバマ政権が続ける散発的なFONOPには、「中国の南シナ海に対する侵略的な拡張政策に対して、同盟国や国際海洋法を守るために、アメリカも努力している」というポーズを示す程度の効果しかない。それを続ければ続けるほど、南シナ海での軍事的優勢が人民解放軍の手に着実に転がり込んでいくのだ。こうした現在の南シナ海軍事状況を我々としてもしっかりと認識すべきである。




《維新嵐》 南シナ海での自由航行権を守りたい、必要なら同盟国との連携の上で南シナ海の問題に対処していきたい、というアメリカに対して、共産中国のめざす戦略は、共産中国を中心とした南シナ海でのアメリカ抜きの領有権を担保することである。
 アメリカ海軍のFON作戦の主旨は理解できるものの、今までの共産中国の戦略戦術をみてもいわゆる「実弾を伴う」戦争をしかけているわけではない。いわば初めに攻撃をした方が負けなのである。
 FON作戦により、西沙諸島をはじめ共産中国に、対艦ミサイルや対空ミサイルを配備なさしめてしまったことは、目先の利益に目がくらんだホワイトハウスでの対中戦略の失敗の結果として後世まで語りつがれる戦史の負の教訓でもある。
 先に「弾を(ミサイルを)撃つことは敗北を意味する。」それが理解できるからアメリカ海軍は一発もミサイルを撃っていない。逆に「専守防衛」と称して、対艦、対空ミサイルを配備するだけで「武力による威嚇」と理解されるならば、このあたりから世界の価値観を共有する国々に積極的に「事実」を発表して、共産中国の「領土的野心」を糾弾し続けること、外交戦略、情報戦略から共産中国の海洋への侵略を抑止することがまずは軍事作戦よりも効果的なのかもしれない。

南シナ海に「自由航行権」を担保すること=経済、安全保障におけるアメリカと同盟国との連携を担保すること。



さらに前進した米印防衛協力

岡崎研究所
 20160519日(Thuhttp://wedge.ismedia.jp/articles/-/6753

米国のシンクタンクCSISのリチャード・ロッソウ上級研究員が、カーター米国防長官のインド訪問は両国の戦略的関係を前進させたと評価し、またこのことは政権移行期という不安定な時期を乗り切る上で意義があったとする論説を、2016414日付で同研究所のウェブサイトに掲載しています。要旨は次の通り。
米印関係進展にはずみ付ける今回の訪印
 カーター国防長官の二度目の訪印にはかなり高い期待が寄せられていたが、達成された合意はこの期待を満たすものであり、オバマ政権の残された期間におけるさらなる進展にモメンタムを提供する。
 昨年6月に合意された両国間の戦略的枠組みに基づき、今回合意されたものに、ロジスティックスの相互支援に係る合意(注:燃料、部品、役務などの相互の基地における相互融通の仕組み)の原則的承認がある。防衛技術協力の下での新たなプロジェクトが合意された。潜水艦の安全確保および対潜水艦作戦に関する双方海軍の間の協議、海洋安全保障に関する双方の国防省、外務省の間の対話も始まることとなった。また、インドの「Make in India」計画に呼応して米国はF-16F-18戦闘機のインドでの生産に係る提案を行った。
 インドが安全保障上の重要なパートナーとなるという約束が直ちに実現するわけではない。当面は人道支援、海賊対策およびインテリジェンスの分野での協力が続くことになる。戦略的利益や能力増強の必要性に後押しされて作戦上の深い協力が実現することは、将来の何処かの時点まであり得ないであろう。
 今日、米国とインドの利益はかつてない程整合的である。しかし、能力の点で、両国は非常に異なる水準にある。米国は前のめり気味の姿勢をとり、相互主義の要求をすることなくインドの技術的能力の強化を助けようとしている。このような忍耐と抑制は、米国の支配的な性向とは一般的には考えられていない。
 1年後には米国では全く新しい指導者達が誕生している。しばしば繰り返されるお題目とは反対に、米国とインドの戦略的関係に対する米国内の支持は、時として甚だ薄っぺらであり得る。これは、アジアの安全保障の問題について利益の対立があるからではなく、色々なグローバルな危機が米国の利益を他の方向に引っ張るからである。インドはグローバルな危機における枢要なプレーヤーではなく、従って、両国関係はたちまち無視されかねない。実質的な進展を遂げ、長期の戦略的関係を固めることは、米国の政権移譲期を乗り切るために必要な追い風となる。この点でカーター長官の訪問は成功であった。
出典:Richard M. Rossow,Carter Visit Another Step forward for U.S.-India Strategic Relations’(CSIS, April 14, 2016
http://csis.org/publication/carter-visit-another-step-forward-us-india-strategic-relations
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 カーター長官の訪問の成果の目玉はロジスティックスの相互支援に係る協定の原則合意であったようで、近いうちに署名に至るとされています。非同盟を旨とするインドには、この協定は米国の軍事行動にインドを巻き込む、あるいはインドの戦略的自立性を害するといった懸念が強く、長年棚晒しとなっていました。
長期的観点で成功といえるカーター訪印
 この論説にあるように、米国はインドの防衛技術の向上を支援する姿勢を明確にしているようであり、今回の訪問に際する両国の国防相の共同声明は、先端技術の面で協力を深めることに合意したと記し、これには空母のデザインと運用、およびジェットエンジン技術についての協議が含まれる、としています。
 以上の他、共同声明に特徴的なことは、海洋の安全保障について2つのパラグラフを割いて相当書き込んでいることです。海洋の安全保障の分野で協力を強化するとした上で、民間貨物船の航行に関するデータの共有を進めるための取極めを早期に締結すること、潜水艦の安全確保と対潜水艦作戦に関する双方海軍の間の協議を始めること、および海洋安全保障に関する双方の国防省、外務省の間の対話を始めることに言及しています。さらに、両国防相は「海洋の安全保障を守り、南シナ海を含め地域全体において航行と上空の飛行の自由を確保することの重要性を再確認した」などと述べています。
 この論説のカーター長官のインド訪問の評価の観点は、正鵠を射ていると思います。政権移行期は不安定で思わぬことが起き得ます。次期大統領がトランプでなくとも、既定路線だと思っていたことが覆されることがあり得ます。その意味で、長期的に進めねばならないことはできるだけ固めておくことが賢明であり、カーター訪印がこの観点で成功であったのであれば、歓迎すべきことです。