2015年5月6日水曜日

「シビリアンコントロール」について考えてみよう!

自衛隊法 第7条
 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。

 現在我が国におけるシビリアンコントロール(文民統制)の根拠である。
 シビリアンコントロールとは「文民統制」すなわち「職業軍人たる指揮官は政府の文民の指揮の下(もと)に置かれる。」近代民主国家の原則であるとされている。軍事力の暴走を抑止し、軍事に対する政治の優先を指すとも理解されている。
 日本では自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣であり、隊務を統括する国務大臣として防衛大臣が置かれている。
 言うまでもなく総理大臣、防衛大臣ともに自衛隊に属さない市民の代表、つまり政治家である。いわゆる制服組のトップである統合幕僚会議議長は防衛大臣のスタッフであって、部隊の指揮官ではない。
 日本ではよく「軍事に従事する人間には発言権が与えられていない」と誤解されがちだ。しかし実際には防衛政策の立案に際しては、自衛隊の中枢である陸海空の幕僚監部や統合幕僚監部が大きな役割を担っている。したがって「武官は文官より下」という認識は全くの誤りなのである。
 ちなみにシビリアン(文民)とは国民の代表たる政治家のことを指すので、防衛省に勤務する事務官、いわゆる「背広組」のことをシビリアンとはいわない。ついでに申し上げると「背広組」も広義では「自衛隊員」である。「自衛隊員」と「自衛官」は大手マスコミにおいてもよく混同される。「背広組」に対して「制服組」があり、制服組とは平時から部隊編制をとり、階級が与えられている自衛官のことである。

 ① シビリアンコントロールとは、国防・安全保障の問題で、軍を使って問題を解決するのか、軍を使わないで問題を解決するのか、その最終決定権を政治が握っていることである。(前航空幕僚長田母神俊雄氏解釈)

 ② 本来文民統制とは、広い意味で国民を代表する政治家、つまり国会や首相または国務大臣が自衛隊を指揮統制するという意味である。(ジャーナリスト櫻井よし子氏解釈)

  ③「文民統制」とは「文官統制」でない。政治が軍事に優先する、自衛隊の最終指揮権は内閣総理大臣がもつ、というだけのことであり、防衛省の内局の防衛官僚、いわゆる背広組が制服組に優先し、現場の防衛計画に口をはさむことがあってはならないのである。

④ 文民統制(シビリアン・コントロール)は、一般的に政治が軍事を統制すること、或いは政治の軍事に対する優位を定めた制度を指し、その本旨は国民国家が保有する軍事力或いはその武力組織である軍隊を国を代表する政治家がしっかり管理し、必要な場合これをコントロールして合理的かつ適切に行使することにある。我が国においても第2次世界大戦の反省から、その概念や思想が国の政治や行政システムに組み込まれ、自衛隊はその統制下に置かれている。即ち、第2次世界大戦後に制定され、1946年11月に公布された現在の憲法では、内閣総理大臣はじめ国務大臣は「文民」でなければならないとされている。そして「文民」の解釈については、政府の国会答弁によると、「①旧陸海軍の職業軍人の経歴を有する者で、軍国主義思想に深く染まっていると考えられる者、②自衛官の職にある者、以外の者を言う」(昭48.12.7.衆議院予算委員会理事会)となっている。また我が国におけるシビリアン・コントロールの現状認識については、同じく「①内閣総理大臣及び国務大臣は憲法上すべて文民でなければならないこと、②国防に関する重要事項については国防会議の議を経ること、③国防組織である自衛隊も法律、予算等について国会の民主的コントロールの下に置かれていることにより、その原則は貫かれている」とされている。(昭55.10.14.衆議院)

 政治を実行に移す行政の分野においても行政府の長(大臣)に対する官僚による補佐機能も間接的にはこれに関わりをもつと一般に理解されている。防衛庁の場合、現行法制上(防衛庁設置法・自衛隊法)文民である防衛庁長官を庁の所掌事務に関して直接補佐するのは、文民の参事官である官房長や局長であり、自衛官の最上位にあって統合幕僚会議の会務総理を職責とする統合幕僚会議議長(将)はもとより、陸海空各自衛隊の実質的な最高責任者である幕僚長(陸・海・空将)も、それぞれが所掌する自衛隊の隊務に関する最高の助言者として長官を補佐することになっているものの、官房長等に課せられているような防衛庁の所掌事務全般に関して長官を補佐する立場には置かれていない。つまり日本の場合は諸外国とは異なって政治家の下に軍人が配置されるのではなく、間に文民官僚等で構成する「内局」が存在し防衛に関する政策、装備、人事、経理などを担当している。作戦運用等軍事専門事項を文民官僚が直接補佐する事に関して問題視するむきもある。
 民主主義国家において、軍事力(組織)の管理及び行使に対してシビリアン・コントロールが適正に機能することは、一国の安全保障及び国防上当然かつ基本的な要素である。そのため我が国では、先ず第一に自衛隊を組織し管理する、即ちコントロールする側の政治(家)が国際安全保障情勢等の適切な認識に基づき、リーダーシップを発揮することが重要であり、これを支える国民の安全保障や国防に対する関心と健全な理解がその基盤になる。また法治国家として、特に有事に政治による自衛隊のコントロールを良く機能させて自衛隊が適正かつ効果的に任務を遂行するため、平時にいわゆる「有事法制」を整備されている必要がある。

まとめ

 戦前は、「軍部が暴走した。」自衛隊の幕僚や政治家の発言などで「文民統制」に反するといわれることが多いが、そもそも「文民統制」とはそれほど完全無欠なものなのだろうか?軍部の暴走を制御する手段のようにいわれるが、我が国の自衛隊は有事に暴走するような危険な集団なのだろうか?自衛隊は憲法、自衛隊法、防衛省設置法といった法律の制約で運営される。戦前の陸軍、海軍にも軍規があり、明治天皇がだされた軍人勅諭がある。幕末の長州奇兵隊や幕府歩兵隊にも軍規があるだろうし、有名な新選組にも局中法度、軍中法度なるものがあり、前者は心構えというものだが、後者は明らかに近代的な「軍規」である。
このようにおよそ近代的な軍隊といわれるものには必ず関連法、軍規が存在し軍人のモラルは確立されているといっても過言ではない。

 大東亜戦争で我が国の軍部が「暴走」した解釈も、満州や中国での居留民の安全をはかるため、国益を守るために軍の規律に従って作戦行動したことを、後世「左翼的な見地」から「暴走」といっているだけではないのか、という考えに至っている。むしろ軍部の対応よりも現実にしっかり対応できていない政治家の無能ぶり、つまり戦前のシビリアンコントロールがうまく機能しなかったことが、我が国を「侵略者」として扱う国、国内勢力を生み出してしまった原因なのではないだろうか?
考えてみればナチスドイツのヒトラー、片腕のゲッペルス、イタリアファシスタ党のムッソリーニは「文民」である。ソ連のスターリンは文民であるが、日米戦争で抑止力の弱まった我が国の南樺太や千島に侵攻し、いまでも実効占領している。そう考えると「文民統制」が平和を守る絶対的な要素とはいえないであろう。

自衛隊制服組の叛乱1

自衛隊制服組の叛乱2

文民統制は戦争の歯止めになる?好戦的な文民と戦争
20150522 07:00 http://blogos.com/article/112619/

「文民統制」の話ですが、本論に移る前に、一見相応しくない話をします。

ドローン中継を各地でしていた15歳の少年が逮捕されましたね。この少年は動画配信を始めてから学校を退学し、視聴者の煽りに乗せられるままに過激な放送を行っていたそうです。親がPC没収、小遣いの打ち切りに出ても、ネット経由で視聴者が金銭やPC、ドローンを与えて放送を続けさせた結果、今回の逮捕という結末になりました。人生を狂わされた少年が支払った代償は計り知れませんが、煽った視聴者は責任を問われる事もなければ、なんの代償も払う事はないでしょう。

放送で楽しんでいたという点で少年も視聴者も同じですが、両者が負担するコストには、あまりに大きな不均衡が存在しています。この点を踏まえて、文民統制の話に移ります。
軍の暴走を抑止する文民統制
安全保障関連の法律の改正、制定が続いております。先日も防衛省設置法が衆議院で採決されました。

防衛省の内局官僚(背広組)と自衛官(制服組)を対等に位置づける同省設置法改正案が15日の衆院本会議で採決され、与党と維新の党などの賛成多数で可決、参院に送付された。民主党などは「文民統制(シビリアンコントロール)」を弱めるなどとして反対した。

出典:防衛省設置法が衆院通過=「背広優位」を是正

防衛省設置法改正を巡る議論の焦点は、防衛省内で内局官僚(背広組)より立場が下だった自衛官(制服組)を、背広組と対等の関係にする事でした。これにより自衛隊運用の効率化を図るとしていますが、野党からは文民による統制、シビリアンコントロールが弱まるという批判が出ています。
 ここで、文民統制とはなんなのか、一度振り返ってみましょう。

「文民統制(シビリアン・コントロール)とは、『議会に責任を負っている大臣(文民)が軍事権をコントロールして、軍の独走を抑止する原則』です。(中略)簡単に言えば、自衛隊が独り歩きして、戦争をすることを防ぐためです。」

出典:防衛省「背広組」と「制服組」の立場が対等に――「文民統制」に影響はないのか?

文民統制は「軍の独走」を抑止する原則で、戦争を防止するための機能を持つということです。野党は制服組の発言力が高まる事で、文民統制が弱まると懸念しているのです。

このような野党の批判に対し、今回の改正は防衛省内の「文官優位」を是正するもので、政府による文民統制はむしろ強まるという反論が政府からされています。

この政府・野党の文民統制を巡る議論を見てみると、文民統制が「軍の独走」を抑え、戦争を抑止する働きを持つという認識を、政府・野党は共有している事が分かります。
戦争に突き進む、好戦的な文民統制
しかし、本当に文民統制が戦争を抑止するのでしょうか?

この命題に対し、国際政治学者の三浦瑠麗氏はその著書「シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき」http://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=dragonerb-22&l=as2&o=9&a=4000258648で、民主主義が確立した国で文民が主導する「成熟したデモクラシーによる戦争」がしばしば行われている事を指摘しています。

「アルゼンチンに負けるはずの戦争」として軍が反対したフォークランド紛争、抑制的だった軍にホワイトハウスのタカ派が圧力をかけた湾岸戦争、戦争のコストが低く見積もられていると陸軍や海兵隊が激しく反対したイラク戦争、93%の国民が戦争を支持した第二次レバノン紛争……。三浦氏はこれら民主主義国による戦争で、「抑制的な軍」「好戦的な文民」といった構図があり、抑制的な軍を押し切って文民が戦端を開いた事を明らかにしています。文民統制がしっかしりているからこそ、軍事のプロフェッショナルである軍が反対しても、アマチュアである暴走した文民の意向に軍は従う他ありません。
市民の前で整列する自衛官(筆者撮影)
特定の国の特殊例だという意見もあるかもしれません。しかし、過去の日本にもこのような例は存在します。日清戦争が開戦に至った理由を、日本国内の「衆意」の存在に求める研究があります。政権内の対清強硬派の存在に加え、当時の強硬論を唱えるジャーナリズムがあり、総選挙を控えた伊藤内閣は戦争に踏み切らざるを得なかったというものです。このように、好戦的な文民による戦争は普遍的に見られるようです。

軍の暴走による戦争は抑止するが、文民の暴走による戦争は抑止できない。これが文民統制の限界なのです。
文民による戦争を防ぐには

好戦的な文民による戦争を防ぐにはどうすればよいでしょうか。三浦氏はデモクラシーを「共和国」に近づけることを提案しています。ここでいう「共和国」とは、政策決定への自由な参加とその結果を応分に負担しあう国家像の事を指します。イラク戦争では戦争を始めたのは文民でしたが、大量の戦死者という形で犠牲を払ったのは軍人でした。このように文民と軍人の間で、負担の不均衡が生じており、それによって文民による戦争への敷居が下がっているのです。

三浦氏は「共和国」提案の中で、軍の経験や価値観を共有する国民を増やすため、緩やかな徴兵制の復活といった刺激的な具体策を挙げています。徴兵制復活は議論の余地が大きいでしょうが、文民が戦争の結果を応分に負担する方策と言うと、他に思いつきそうにありません。なにせ、軍人のかけるコストは命なのですから。

しかし、現実的に徴兵制は世界から消えつつあります。こうなった場合、それ以外の方法で「抑制的な文民」を実現する制度を構築する必要があります。一つの解として、憲法9条のように、戦争による問題解決をあらかじめ禁止しておく方法もあるでしょう(9条は武力の保持も禁止していますが、それはひとまず置いておくとして)。しかし、先にあげられたフォークランド紛争のような主権の侵害に対する反撃となると、現在離島防衛が議論されている事などを踏まえると、いささか9条でも抑止効果は期待出来ないのかもしれません。

人が抑制的であるのは難しい事だと思います。ましてや、自分のよく知らない事なら、過激な選択にブレてしまう事もあるかもしれません。この問題の解決策にならない事を承知の上で言いますが、実質的なコストを払う側にもう少し意識を向けてみてはどうでしょうか。冒頭に挙げた少年も、視聴者がそうだったなら違った結末もあったのかもしれません。

図らずも一人の少年に民主主義国家の戦争の縮図を見ました。応分なコストを引き受ける覚悟、貴方にはありますか?

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